。生理的慾望については、娼婦のところへ行きさえすれば、こちらは黙っていて、少しも気を遣うことなく、極めて自然に満足さしてくれる。何の気苦労もいらず、はにかむようなこともない。だが家庭では、いろいろ恥しいことがあるだろうし、極り悪いことがあるだろう。それで私は結婚については、私には理想がありますし、理想にかなう相手が見つかるまでは結婚はしません、と言い遁れてきた。理想、そんなものは実は一つだってありはしない。考えてみれば、寒々とした淋しい日々だ。
胸のどこかを金槌でことりと叩かれたような思いで、私は澄江の顔を見返した。
「僕が一人っ子だってこと、どこで分る?」
「なんだか……静かで、そして淋しそうですもの。」
こんどは、顔色も変えず、精一杯のような真剣さだ。
「そんなことを言えば、君だって……一人っ子なんだろう。」
言ってから、私は顔が紅くなるのを感じた。
彼女は返事をしなかった。私も口を噤んで、杯を取り上げた。それから、あまり口は利かなかったが、互に杯のやりとりをしながら、自然に、そして大胆に、何度か眼と眼を見合った。
これだけのことで、二人が愛し合ったと言えば、なんだかばかげてるようだ。然し、愛情の契機なんて、たいてい些細なものである。一人っ子などと、私たちは下らないことを言ったものだが、どちらも顔を紅らめたのがいけなかった。
私は澄江に逢いたくて、一人で加津美へ行くようになった。私は内気ではにかみやだし、彼女は無口で胸にだけ思いつめるたちだった。語り合うことは少なかったが、愛情は急に燃え上っていった。
澄江は私の下宿へもやって来た。私は加津美へしばしば行った。澄江は叔母さんの家と加津美と、両方に寝泊りしていたので、ごまかしがきき、二人でよそへ泊りに行くことも出来た。
いつとなく、二人の仲は周囲に知れていった。私の下宿のお上さんは、澄江を他人扱いしなくなった。加津美では、まるで芸者のように澄江が私の側につききりだった。一方、私は金に困って、永田から会社の金をだいぶ借りた。私と同じ社員である永田に、会社の金が或る程度自由になることを、私は初めて知った。もっとも、社長の黙許があったのだろう。永田は言った。
「金のことは心配しなくてもいい。君たちのことは社長もうすうす知ってるよ。然し、あまり深まにはいるなよ。」
どの方面にも、大して障碍はなかった。とこ
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