方へ逃げてゆきました。駆けてゆくあとから、桜の花弁がひらひらと散りました。
 巳之助も後を追ってゆきました。
 久江は椎の木の向う側によりかかって、遠くに眼をやっていました。巳之助もそこに並んで、遠くを眺めました。無言のうちに時間がたちました。
 頭の上の椎の茂みに、ばさっと大きな音がして、それから、ばさばさ、さっさっと、風を巻き起すような音がしました。見あげると、一羽の鳶が椎の木から飛びたったのでした。
 鳶の姿が見えなくなり、しいんとなった時、巳之助と久江は肩と肩とで寄りかかり手を握り合っていました。それから、抱きあって、唇を合せました。
 其後、長い間の愛情と親しみのあとで、二人は結婚しました。結婚生活三十幾年、今では二人とも六十歳の上になっています。
 ――あの時のことを、久江は覚えているかしら。
 柴田巳之助はそう考えてみました。それがなにか気恥しい夢のようで、眉をしかめました。
 彼は久江夫人を枕頭に呼びました。
「あの椎の木のことだがね、あれはもう生き返るまいから、伐らせようと思うが、どうだろう。」
 平素、何事によらず夫人には殆んど相談もせずに、独断で決めてしまうことの
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