――あの木を伐り倒してしまったら……。
ふとしたその思いが、次第に彼の心に根を張ってゆきました。
巳之助の幼時、この椎の大木の下蔭は、なにか怪異な世界に思われました。大きな山蟻が、駆けだしたり立ち止ったりしていました。雨のあとには、大きな蝸牛が匐いまわっていました。時には、黒光りのする兜虫がいました。夕方など、蟇が眼を光らしていることもありました。
秋になると、椎の実が落ちました。まだ歯の丈夫な祖母は、椎の実が好きで、天火で炒って食べました。祖母が亡くなってからは、子供たちはもう椎の実も拾わず、その辺で遊ぶことも少くなりました。家屋に近い藤棚の下や桜の木の下に、楽しい場所がありました。
巳之助が中学の上級になりました頃、父と懇意な今井さんのうちの久江が、しばしば遊びに来ました。久江は女学投に通っていて、学校の宿題をいつも巳之助に教わりました。花模様の銘仙の着物に、海老茶の袴を胸高にしめて、髪をおさげにしていました。
むつかしい問題にぶつかって、巳之助が頭をひねっていますと、久江は他人事《ひとごと》のように言いました。
「男のくせに、そんなのが分らないの。」
それで[#「
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