。一本の巨大な幹だけが残りました。それが、上方から順次に、三段に伐り倒されました。眼通り四抱えほどの大木のこととて、足場を組んで鋸で挽くのが主な仕事でした。切られた幹は轆轤で吊して、たやすく地面に転がされました。
 柴田巳之助は病床に寝たまま、椎の木の方を眺めてばかりいました。椎の木が一本の巨大な棒となり、それが三分の一ほど低くなる頃には、巳之助ももう眺めるのに倦きたようでした。あまりに単純に事が運んでいたからでありましょうか。彼はただ鋸のかすかな音や人声に耳をすますきりで、それにもやがて無関心らしくなりました。眼がある以上はそれをどうにかしなければならないという風に、ぼんやり宙を見やったり、瞼をつぶったりしていました。うとうと浅い眠りに入ることが多くなりました。
 体力の衰えが急に目立ってきました。それと共に、重圧めいた苦悩も静まっていったようでした。額には仄かな和らぎの色が浮んでいました。そしてそれらのすべての彼方に、或る内心の一点への想念の沈潜とでもいうべき気配が見えました。医者は訪客との面会を禁じ、絶対安静を命じていました。
 椎の木の幹が全く伐り倒された日、幹夫は父の側に行っ
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