浅黒い松木の顔を、彼は遠くから睥みつけてやった。そして井戸には近寄らなかった。
 井戸はいろんなことに利用され初めた。ビールや西瓜や其他さまざまのものを吊して冷す、大きな笊が用意されたし、水は庭の撒水に使われた。松木は毎朝井戸水で顔を洗った。
 松木は昼間不意に帰ってきて、背中の汗を井戸水で拭いて、また何処へともなく飛び出してゆくことがあった。その姿を二階の縁側から認めると、彼は慌てて障子の影に隠れた。
 大きな楓の木影が、ちらちらと日光の斑点を交えて落ちてる、新らしい井戸端で、胴のでっぷりした足の短い、猿股一つの松木の身体が冷かな井戸水を含んだ手拭で、きゅっきゅっと拭かれてるのを、檜葉の植込越しに見ると、彼は云い知れぬ憤慨の念を覚えた。松木の脂ぎった汗が、楓の木影や新らしい井戸端を汚すもののように思えたばかりでなく、考えたくないいろんなことが、一時に頭へ上ってきた。
 然し彼はどうすることも出来なかった。松木の裸体を避けて、障子の影で一人憤慨した。
 ただ彼が多少心嬉しかったことには、光子は少しも井戸に近寄らないで、一人離れて考えこんでることが多かった。よく二階に上ってきて、彼の側に
前へ 次へ
全45ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング