……。」
 彼は驚いて、彼女の得意げな顔を見つめた。
「ええ。だってひどいんですもの。二階に上っちゃいけないと云ったり、二階に上りっきりで降りてきちゃいけないと云ったり……。あたし口惜しいから、井戸に飛びこんでやるって、庭に駆け出してみせたの。」
「なんでまたそんな喧嘩をしたんです。」
「分らないわ。お前のような親不孝者はないって、拳骨を振上げなすったから、あたし井戸のところまで駆けていってやったの。」
 彼は別に気にもかけずに聞き流したが、光子が時々井戸に飛び込むと云って駆け出すことがあるのを、房子から聞いて喫驚した。
「何か気に入らないことがあると、じきにそうなんです。本当に飛び込みもしますまいけれど、それでも心配になりましてね。」
 房子は大事な秘密をでも洩すもののように、声をひそめていた。
 ところが、或る晩、本当に騒ぎがもち上った。
 十時過ぎのことだった。突然、階下で大きな人声と物音とが起った。それから一寸ひっそりしたかと思うと、庭の方に慌しい足音がした。
 彼はぎくりとして、駆け降りていった。
 奥の座敷の真中に、松木がつっ立っていた。眼をぎろぎろさして、顔色を変えていた。
「どうしたんです。」
 咄嗟に彼はそう尋ねかけたが、松木は返辞をしなかった。そして、雨戸を一杯繰り開いて、庭へ下りていった。彼も後から続いた。
 房子が、庭の中をあちらこちら物色していた。
「どうなすったんです。」
「只今、光子が、井戸に飛びこむって、裏口から駆けだしましてね……。」
 後は云わないで、そこらをうろうろし初めた。
 月の光りもなく、庭の中は真暗だった。座敷からさしてる電燈の光が、雨戸一枚だけの広さにぱっと、植込みの茂みに流れかかっていた。
 井戸の中を覗いて見ても、茂みの中を透し見ても、光子の影らしいものは見当らなかった。
 初めの慌てた気持が静まってくると、三人はぼんやり庭の中につっ立った。
「馬鹿な、すぐ井戸の中に飛び込むものか。」
 突然響いた松木の腹立たしい声が、彼の頭にぶつかった。彼はかっとなった。
「そんな……そんなことを云ってる場合じゃありません。」
 暗闇の中で、二人は顔をつき合してつっ立った。一秒……二秒……すぎた。彼はぶるぶると震えた。
「ふん、余り逆上《のぼ》せきって、図々しいにも程がある。」
 云いすてて松木は、くるりと背を向けて、座敷の方へ歩き出した。
 彼は石のように固くなった。声が出なかった。拳を握りしめてつっ立っていた。
 その袖を、房子が捉えた。
「あなた、どうか……。宅は今気が立ってるところですから……。」
 彼女のおどおどした様子に、彼は夢からさめたように我に返った。
「もう何にも仰言らないで……。それより光子の方が……。」
 然し彼の頭は、俄にはっきりしてきて、松木から投げつけられた言葉が、胸一杯になっていた。
 黙って足を返して、松木と反対に裏口の方からはいろうとすると、その板敷の上に小さな足跡が、黒い泥跡を残していた。彼は立止ってぼんやりそれを眺めた。
 後からついて来た房子も、殆んど同時に足跡に気付いた。
「あ、これです、屹度。家にはいったのでしょう。」
 彼は咄嗟に直覚した。いきなり駆け出して、二階に上ってみると、そこの三畳の方の隅に、光子は小さくなっていた。
 彼は惘然とつっ立った。その膝頭へ、光子はふいに泣き出して取縋ってきた。
 そこへ房子もやって来た。
「まあ! お前は。」
 後は言葉がなかった。
 彼はがくりとそこに屈んで光子の頭を撫でてやった。
 房子が光子をなだめすかして、無理に階下へ連れてゆくまで、彼は一言も口を利かなかった。一人になると、押入を開いてみた。奥の方に、短刀は隠されたままになっていた。
 彼はほっと息をして、六畳の方へ戻って、机の上に両肱をつき、頭をかかえた。
 松木から真正面に投げつけられた言葉が、次第にはっきりした意味をとってきた。彼は自分と光子との間柄を考え廻して、自ら驚いて顔を挙げた。
 真暗な夜の空に、星が粗らに光っていた。
 下宿を変ろう。そう思いついて、まだ決心したともしないとも分らないうちに、眼の中が熱く涙ぐんできた。そしてまた机の上に頭をかかえた。

      九

 からりと晴れた初秋の麗かな朝日が、縁側一杯に当っていた。彼はそこに全身を投げ出して、今後の処置を思い煩っていた。
 昨夜のことはけろりと忘れはてたような、晴れやかな顔をして、光子がとんとんと階段を上って来た。が、彼女はすぐに彼の顔色を見てとって、一寸立止った。その立姿が、すっと伸びて、まだ更に伸び上ろうとしてるかのようだった。
「光子さん。」
 そう彼は呼びかけながら、半身を起した。
「なあに。」
 じっと見つめると、その敏感な眼付と耳の根本の黒子とが、今迄気付かな
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