かった大人びた魅惑を持っていた。
「私は一寸都合があって、よそへ越すかも知れませんが……。」
「え、なぜ。」
「なぜでも……。」
 眼の光だけが機敏に働いて、其他は全く子供らしく、ひょいと彼の肩につかまってきた。
「いや、越しちゃいや。あたしいやよ。」
「そんな、むちゃを云ったって……。」
「いいえ、いやよ。あたし一人になってしまうんですもの。……お越しなさるなら、あたしもついていくわ。」
「ついて来てどうするんです。」
「だって、あたし困るわ。一人っきりで……。」
「お父さんやお母さんがいるじゃありませんか。」
「いたって、やっぱり一人っきりよ。」
「そんなむちゃな……。」
「いいえ、いやよ、どうしたっていやよ。」
 光子は彼の肩を揺ぶり初めた。
「いいわ、そんならあたし、本当に井戸に飛びこんじまうから。」
「そして二階の三畳に隠れるんでしょう。」
「ええ、そうよ。」
 急に真剣な語気になって、彼女は眼をぎらぎら光らしてきた。
「どうしたんです。」
 彼女は黙っていた。
「怒ったんですか。」
「もういいわ、あたし、本当に飛び込んじまうから。」
 眉根をぴりぴり動かしてるその様子を、彼は胸にぎくりと受けた。危いというよりも、何だかえたいの知れないものが彼女のうちに渦巻いてるようだった。彼女は一心に思いつめたように黙っていた。
「あのね、いろいろ考えたけれど、どうしてもここの家にいては悪いような気がするんです。そんなこと、今に分るようになります。ねえ、越したって時々遊びに来るから、いいでしょう。」
「いやよ。」
 きっぱり云ってのけて、彼女はまた黙りこんでしまった。
「じゃあ、どうすればいいんです。」
「家にいるの、いつまでもいるのよ。」
 彼は吐息をついた。どうにも仕方がなかった。と暫くして、光子はふいに泣声になった。
「いやよ、どうしたっていや。ねえ、あたし、悪いことがあったら謝るわ。御免なさい。もう井戸に飛び込むなんて云わないわ。」
「だって、お父さんが何か云ったでしょう。」
「ええ、ひどいことを云ったのよ。だからあたし、机を放り出して駆け出してやったの。」
「どんなことを云われたんです。」
「あたし達があんまり仲がよすぎるって、そして……夫婦気取りでいるって……。」
「え、そんなことを云われたんですか。」
「ええ。あたし、腹が立ってむちゃくちゃになったけれど……もう平気だわ。お父さんなんか何と云おうと、構やしないわ。」
 何の恥らいの色もなく、じいっと見入ってきたその素純な眼付の前に、彼は次第に顔を伏せてしまった。と、頭の中がぱっと明るくなった。
「そうだ……越すのは止しましょう。」
 彼女はにっこりして、首肯いてみせた。
「私は馬鹿なことを考えていたんです。」
「何のこと。」
 見入ってくる彼女を引寄せて、その額にそっと唇を押しあてた。彼女はじっとしていた。
「どんなことがあっても平気でいましょう。」
「ええ、あたし平気だわ。」
 彼は晴れ晴れとした朝日の光を見やりながら、両手の拳を握りしめた。
 けれど、光子が階下に降りてゆくと、彼はまた不安な焦燥に駆られ初めた。光子が一緒にいる間は、平然とした晴れやかな気持だったが、一人きりになると、凡てが陰欝に曇ってきた。
 彼は室の中をぐるぐる歩き廻りながら、我を忘れかけることが多かった。

      十

 彼は騒ぎの夜以来、松木とは一言も言葉を交えなかった。顔を合せることさえ出来るだけ避けた。房子とも余り口を利かなかった。房子の方も変に黙っていた。
 松木は昼間時々帰ってきては、やはり庭の井戸端で背中の汗を拭うことがあった。汗深いため残暑になやんでるらしかった。
 そういう松木の姿を見ることが、彼には一番堪え難かった。見まいとしても、二階からすぐに見下せた。彼はわざと障子を閉め切って、反対の隅の方に寝そべった。それでも、車井戸の音ははっきり聞えてきた。
 俺は何でこんなに焦燥してるんだ、と自ら尋ねかけても、はっきりした答は得られなかった。
 松木が光子の父であることがいけないのか……大悪人でも善人でもなく、ただ小策ばかりの没感情的や凡人であることがいけないのか……いや、彼の存在そのものが彼には堪え難かった。
 そういう憎しみはどこから来るか分らないものだった。口論をしたり殴合いをしたりした後の憎しみならば、まだどうとでもなるが、面と向っては口が利けない根本的の憎悪は、どうにも出来なかった。
 先夜、庭の暗がりで向き合った時、心のどこかに殺意が動きかけたことを、彼は後になってはっきり思い出した。気持が欝積してくると、今にも何かが破裂するかも知れないような気がした。夜分、松木が階下の室に控えていたり、同じ屋根の下に眠っていたりするのへ、意識が働きかけてゆくと、彼はじっとしてお
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