何か機会があったら、一寸したきっかけがあったら、ぶつかっていってやろうと思う、その思いだけで、自分はどんなことを仕出来すか分らないという恐怖が湧いた。
 房子も光子も隅の方にすくんでいた。
 その房子を松木は※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]でさし招いて、昼間から井戸に冷しておいた西瓜を切らした。そしてそれを彼へも勧めた。
「一寸腹工合を悪くしてますから。」
 やっとのことで彼はそれだけ云って、黙って西瓜をかじってる松木の前から逃げるように、二階の室へ上ってしまった。そして初めて安らかに息がつけた。
 俺は一体何をしてるんだ、と自分で自分に云ってみても、松木の前に出ると、彼はどうにも出来なかった。
 松木が家にいると、なぜか光子までが、二階にやってくるのに足音を忍ばしていた。そして彼のところへ来て、ほっと息をつくらしかった。
「やっぱり夢をみるんですか。」
「ええ時々よ。」
「じゃあ、私がいいものを借してあげましょう。これを枕頭に置いて寝ると、悪い夢なんかちっとも見ないんです。いいですか、そう思いこんで、ぐっすり眠るんですよ。」
 今迄躊躇していたが、彼は思いきって、一尺足らずの小さな短刀を取出して渡した。
「あら、これ刀ね。」
「ええ。」
 気味悪そうに膝の前に置いて眺めてるのを、彼はしいて手に持たしてやった。
「枕頭に置いて寝ると、決して悪い夢なんかみないんですよ。」
「だって、見付るわ。」
「構やしません。私がむりに持たしたんだと、そう云ってごらんなさい。」
「叱られやしないかしら。」
「叱られたら、逃げていらっしゃい。私が云い訳をしてあげるから。」
「そう、屹度ね。」
「ええ。大丈夫。」
 どんなことになったって構うものか、彼は変にびくびくしてる自分の胸に、自分で云いきかしてやった。

      八

 光子は悪夢をみることがないようになった。俄に元気に活溌になっていった。
「もう夢をみないでしょう。」
「ええ。」
「よく眠れますか。」
「ええ。よく眠られるわ。」
 にこにこして彼の顔を見ていた。
「じゃ、もうあの刀はいいでしょう。」
 光子は頭を振った。
「え、どうして……。あんなものをいつまでも持ってるものじゃありません。」
「だって、また夢をみると困るから。」
「その時はまた借してあげます。」
「いやよ、あれ、あたしに頂戴ね。」
「あんなものをどうするんです。」
「大事にしまっとくの。」
「そんなことをすると、本当に叱られますよ。」
「大丈夫。誰も知らないから。」
「でも、枕頭に置いて寝たんでしょう。」
「いいえ。」
「ではどうしたんです。」
「誰にも分らないように、あたし、抱いて寝たの。」
「え、刀を抱いて寝たんですか。」
「ええ、毎晩抱いて寝て、朝になるとそっとしまっといたの。」[#「しまっといたの。」」は底本では「しまっといたの」]
「どこに。」
「そこの、三畳の、あなたの押入の中に。」
 嬉しそうな笑顔をして、眼をぱちぱちやってみせた。
「そんなことをしたので、私が刀のことをきいても黙ってたんですね。」
 うそうそ笑いながら、ふいに彼の首へ飛びついて来た。
「ねえ、あれあたしに頂戴ね。」
「上げてもいいけれど……。」
「下さるの。嬉しい。」
 彼の首をきゅーっと抱きしめて、それからひょいと飛びのいて、縁側の手摺を力一杯に揺っていた。
 母親に似た顔立で、円いくるくるとした輪廓だったが、母親よりも口元が引緊って、睫《まつげ》の長い[#「睫《まつげ》の長い」は底本では「睫|の長《まつげ》い」]眼が澄んで光っていた。耳の根本に小さな黒子があった。
「あら、ここから見ると、あの井戸は綺麗ね。」
 いつもよく見てるくせに、初めて見るもののように、眼を見張った。
「あれからお化が出るんですよ。」
 彼は初め冗談を云ってみた。
「いやーだ。」
「だって出たでしょう。」
「嘘、嘘。」
 彼のところへ飛んで来て口を押えた。
「あたし、これから勉強するの。分らないところ教えて頂戴、ね。」
「ええ。」
 そんなことから、光子は始終二階にやって来るようになった。そして呼ばれるまでは降りていかなかった。どうかすると、呼ばれてもなかなか立上ろうとしなかった。
「叱られやしませんか。」
「いいのよ。構やしないわ」
 快活になると共に、母親を馬鹿にするような素振を見せ出した。ばかりでなく、父親をも軽んじ初めたようだった。
 彼は不思議な気持で、その様子を見守っていた。
 松木は帰って来て光子が見えないと、階下から大きな声で呼び立てた。
「そら。」
 皮肉な笑顔をして光子は降りていったが、夜になるとまた、松木が茶の間に控えている前も平気で、二階の方にやって来ることがあった。
「あたし、お父さんと喧嘩してやったの。」
「お父さんと
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