ゃあ、どうしてお父さんに分ったんだろう。私も云やしないし……。」
「何でも分るのよ。」
「え、なぜ。」
「なぜだか、何でも分るの。だからあたし、恐いわ。」
光子は眼を据えて、縋りつくように彼の顔を見入ってきた。彼は唇をかみしめた。
「これから、何でも私が引受けてあげます、ね。みな打ち明けるんですよ。そして、お父さんに叱られるようなことがあったら、私のところへ逃げていらっしゃい。」
「そんなことをして……。」
「構やしません。あんなひどい……。」
彼は変に不気味な気持と憤ろしい気持とを同時に感じた。
それをじっと我慢して、いろいろ光子を慰めてやってから、階下に降りてゆくと、房子が茶の間で針仕事をしていた。その善良な鈍感な顔を見て、彼はいきなりきめつけてやった。
「光子さんはやはり、恐い夢をみて夜眠れないんです。それを今迄放っとくなんて、余りひどいじゃありませんか。」
「まあー、夢をみて眠れないのですって……。」
「そうです。それもあなた達が、差配をだますために、嘘を本当のように云わせようとしたからです。」
房子は彼の激しい調子に、きょとんとした顔付で呟いた。
「わたしは止めたんですが、宅が強いて云うものですから……。」
「松木さんがどんなことを云われようと、あなたは母親じゃありませんか。あくまでも庇ってやるのが本当です。」
「ですけれど……。」
「一体あなたは、余り人が善すぎるからいけないんです。松木さんがどんな考え方をして、どんなことをされてるか、あなたは御存じないのですか。」
「あの通り、何にも聞かしてはくれませんので……。」
「聞こうともなさらないんでしょう。」
「聞いたところが、わたしには何にも分りませんし、男の仕事に女が口を出すものではないと云われますと……。」
「よくそれであなたは、不安じゃないんですね。」
「わたし、こんな性分なものですから……。」
「それでも、光子さんが可愛くはないんですか。」
「ええ、それはもう……。」
「じゃあ、せめて光子さんのことだけなりと、もっとしっかりなさらなくっちゃ……。」
「自分でもそう思いますけれど……。」
「現に光子さんがどんな気持でいるか、お分りですか。」
「だからあなたに……。」
「聞いて貰うと仰言るんですか、自分の娘のことを……。」
そんな風に、彼は房子を云いこめてるうちに次第に気持が白けてしまって、口を噤んだ。馬鹿馬鹿しいのか腹が立つのか、自分でも分らなかった。そこへ暫くしてから、房子はふいに云った。
「わたしはもう、長年のことで、諦めておりますの。」
溜息と共に彼女がふいに涙ぐんだので、彼は茫然としてしまった。
七
何という変な人達ばかりの集まりだろう、と彼は考えた。そしてその考えはいつも、松木に対する憤りに落ちていった。
然し彼は、松木に対してだけは、面と向うと、少しも物が云えなかった。庭の穴を掘り返してみた時以来、彼は碌々松木と話をしたこともなかった。そして影でただじりじりするだけだった。
松木は[#「 松木は」は底本では「松木は」]相変らず千三《せんみつ》の仕事に、一日中馳け廻ってるらしかった。夜帰ってくると、茶の間でいつまでも煙草を吹かしたり、奥の座敷で書類と睥めっこをしたりして、家族の者とも余り口を利かずに黙っていた。
彼も時々それと対抗するような気で、蚊に刺されるのを我慢しいしい、階下の茶の間にじっと坐ってることがあった。
意識の全部が松木の方へねじ向けられて、じりじり苛ら立っていった。
二十万とか五十万とか、いつも十万のつく金額ばかりを口にしてる松木、困ってくると細君の着物まで質に持って行く松木、十二三歳の自分の娘に危い狂言をさしてまで、差配を瞞着してしまった松木、細君を頭から押し伏せて、馬鹿みたいになしてしまってる松木、娘をおどかしつけて、始終恐れおののかしてる松木、碌に誰とも口を利かないで、而も何でもよく分るという松木、その松木全体の存在が、彼には堪え難いもののように思えてきた。
日に焼けた浅黒い、いつも陰欝な没表情な額、さほどの年令でもないのに、ぽつぽつ白いのの見える五分刈の荒い頭髪、時によって妙に濁ったり鋭く光ったりする眼、頑丈そうな歯並と固い唇、太い頸筋、長い胴体、短い足、どこと云って異常な点はないが、見れば見るほど憎々しいその身体全体が、彼には堪え難かった。
それが、そこに、電燈の光の下に、蟇蛙《ひきがえる》のようにのっそりと構えこんでいた。存在することだけで既に罪悪のようだった。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、彼はやはりその方へばかり意識が向いていった。手を動かし足を動かし、一寸身動きをすることまで、一々相手に反射するような気持だった。じっと我慢をしていると、額から脂汗がにじみ出てきそうだった。
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