、未亡人が「それ猫が来た!」と縁側に出て手を上げて追っ払い、室に駆け戻ると、生前S氏が使っていた仕事机から、錆びた安っぽいナイフを出して、死人の枕もとに置いたことが、ふーッと頭に泛き出したのだ。――実のところ、私もそんなに長く生き永らえる自信は持ち合わせてないのであった。時とすると死が足音をひそませて忍びよるように思えることが度々である。定めしユキ一人に看護られ、何処かの佗び住いで寂しく閉眼するだろうが、生臭いにおいを嗅ぎ知った黒い野良猫が黄金色の目玉を光らせて死体を喰いに来た場合、剃刀は平日から持っていないので、泣き沈んだユキが、「しッ!」と猫を叱りながら周章ててこのナイフを取り出して枕辺に置く――続いてそうした光景が眼に見えて描かれてくると、そんなこととは知らずに一生懸命に針を動かしているユキの顔が、もう正視出来なかった。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](嘉村磯多――七月二十二日の夜)
 じみな描写や、対象をじっと見つめて、自分自身をもつき離して眺めてる態度などは、自然主義に似寄っているが、然しここでは、作者の心情の動きに対する拘束は殆んど引除かれている。

  
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