、生活的意欲など、一言にしていえばその心意の燃焼から起る熱はおのずから作品の中に伝わって、作品を生活させる熱となる。作者がその心意の熱を失って、ただ書かんがために書く時、即ち表現の熱意だけで筆を執る時、作品は冷えきって、冷灰枯木に等しくなる。本当に書きたくて書くということは、表現の熱によるのではなくて、心意の熱のはけ口を求めることである。
自然主義が、一方では作者自身の心意の熱を枯渇させ、他方では現実の外壁につき当って行き詰った時、そこに当然新たな途が要求される。新たに現実を見直し、新たに現実の奥に探り入ろうとする努力が、即ち現実に対する新らしい態度が、要求される。
最も自然主義に近い表現法に依ってる作家でも、現代ではよほど自然主義とは離れたところを歩いている。
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「私は軽く頷いたが、途端、今までの喜び全部が、暗い淵の底に石でも抛ったようにドブンと音を立てて沈んでいった心地がした。S氏が世田ヶ谷のごみごみした露地内の、狭苦しい、蒸し暑い家で、口をパクパク二つ三つ喘がせて息を引き取った時、隣家の垣根を飛び越えてきた大きな虎猫がミャンミャンとドラ声で鳴いて近寄ると
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