となって生きるの外はない。感じ行い、愛し考え苦しむところの自分自身を眺むるばかりで、凡ての世間の人のように、それぞれの喜びや悲しみの後に自分自身を解剖しないで、素直に単純に苦しみ考え愛し感ずることは、決してないのである。
いわゆる「小我」を去ったそういう「大我」は、一体何物ぞ。それは神の境地であろうか。否。神には自己の分裂はない。神は小我の荷物を持っていない。そして人間にあっては畢竟、「小我」こそ自己であって、「大我」はその「小我」が転身したものではなく、現実に対する態度からいつしか習得された頭脳の一の働きに過ぎないのである。
かくて、「自然の魂」を取り失い、「人生の壁」につき当る時、その作家の筆端から生れるものは枯渇した記述に過ぎなくなる。現実の豊満さを具えていたものが、やがて養液を失って干乾びた死屍に過ぎなくなる。作家自身、心意の熱を失ってくるからだ。
あらゆる生物の生理に熱量が主要な問題となる如く、文芸作品の生理にも熱量が主要な問題となる。熱を失って冷えきる時には、作品も死んでゆく。
この作品の熱は、作者の心意の熱が移植されたものに外ならない。作者の思想的欲求、感情的欲望
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