を感ずる。そしてその「何か」をも、具体的な描写のうちに籠めてほしいと、芸術に向って要求したいのである。
 現実の有する内在的気魄ともいえるその「何か」が欠ける時、読者は常に不満な焦躁を感ずる。描かれた人物はなお更のことであろう。右の作中の笹村やお銀が、もし作中で呼吸をしているとするならば、定めし息苦しい思いをするに違いない。そして作者自身も、人間をそういう風に取扱うことについて、遂に或る落莫たる心境に陥らずに済むであろうか。
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「起き上り、歩き、窓にもたれてみる。向うの人々は午飯を食べている。そっくり昨日の通りだ。明日も同様だろう。父と母と四人の子供達。三年前にはまだ祖母がいた。それはもういない。吾々が隣り同士になった時から父親はひどく変った。が彼自身はそれに気付いていない。満足そうにしている。幸福そうにしている。ばかな奴だ。――彼等は結婚のことを話し、次には死者のこと、次にはやさしい子供のこと、次には不正直な女中のことなどを話している。役にも立たない下らない無数の事柄に気を揉んでいる。ばかな奴等だ。――十年も前から彼等が住んでる部屋を見ると、私は胸糞がわるくなり
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