な心持で、涙を一杯ためた目元ににっこりしていたが、直に眠に沈んでいった。汗や涙を拭取った顔からは血の気が一時に退いて、微弱な脈搏が辛うじて通っていた。
 産婆は慣れた手つきで、幼毛の軟い赤児の体を洗って了うと、続いて汚れものの始末をした。部屋にはそういうものから来る一種の匂が漂うて、涼しい風が疲れた産婦の顔に、心地よげに当った。笹村の胸にも差当り軽い歓喜の情が動いていた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](徳田秋声――黴)
 こういう描写を読むと、吾々は作者の冷徹な態度に心を打たれる。そこには何等主観の動きはなく、ただ対象をじっと眺めてる眼があるばかりである。そして分娩の光景がまざまざと現出されている。現実の厳粛さといったようなものがある。けれども、吾々はまた、たとえこの作が「黴」という題名の示す作意に成ったものであろうとも、一種不満な焦躁を感ずる。分娩ということ――一人の人間が生れるということ――のうちに、その事実のなかに、吾々は一種のいい知れぬものを感ずる。それが何であるかは分らないが、産婆の処置や医者の手当や赤児の泣声以外に、即ち外見的な事実以外に、或は以上に、何か
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