に理解し摘要し批判する。」
 それ故、如何に精緻な観察と忠実な描写とを以てしても、万人が真実だと認むる現実相を伝えることは出来ない。如何なる作家も、完全に自我を脱してしまうことは出来ない。ただ、要は、「その自我を隠すのに役立つ種々の仮面の下に、読者からその自我を認められないようにすることである。」かくて自我を――自分の思想感情を、一切の主観を――没却することが自然主義客観描写の根本となる。そして自我を没却するこの態度を押し進めてゆく時、そこに芸術至上主義が生れる。フローベェルはいう――「凡てを芸術に捧ぐべきである。芸術家にとっては、生活は一の手段であって、それ以上の何物でもないと考えなければならない。」
 生活でさえも既に一の手段である。その他のことはいうまでもない。一切を挙げて現実の再現に奉仕するのである。そしてこの態度は、単に外界に対するばかりでなく、自分自身に対するものともなる。観察眼が自分自身にも向けられて、自分が如何に悲しみ喜び或は行動するかを、冷やかにじっと見守るようになる。田山花袋は、実際に行動する自我を小我と名づけ、それを見守る自我を大我と名づけて、小我を没して大我に就
前へ 次へ
全74ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング