。どういう風に異なるかを見るには、従来のいわゆる心理解剖小説のことを一言しておく必要がある。
 心理解剖小説は、近代になって極度の精緻さを来した。例えば、吾国によく知られてるドストエフスキーやブールジェの小説はそれである。
 ドストエフスキーは心理解剖ばかりの作家とはいえない。彼の小説は、その構想の上にロマンチックなところが非常に多く、細民街の貧しい人々の描写には深刻な写実味が豊かであり、虐げられた人々の生活の叙述には一種神秘な心霊的な光輝が漂っている。けれども、例えば「罪と罰」などのような作品は、結局心理解剖を主としたものといってよいだろう。そしてブールジェの方は、純然たる心理解剖作家である。
 ところで、それらの作家の作品において、第一に目立つことは、その心理解剖が人間の行為を説明せんがためのものであるということだ。とこういえば、或は可笑しく聞えるかも知れない。すべて芸術上の種々の態度や方法は、それ自身が目的ではなくて、或は美を目的とし、或は何等かの解決を得るのを目的とする。だから心理解剖もそれ自身が目的でなく、即ち解剖のための解剖ではなくて、説明のための手段であることに、別に不思議はない。然し、実は、それが人間行為の説明のための手段であるところにこそ、現代の心理主義と異なる要点が潜んでいる。
 その要点にふれる前に、一応、説明のための心理解剖がどういう結果を来たしているか、ドストエフスキーの「罪と罰」とブールジェの「弟子」とについて、概説してみたい。
 ドストエフスキーの「罪と罰」は、主人公ラスコルニコフが金貸の老婆を殺害することが、全篇の中心であって、あらゆる事柄がその一事に集中されている。大学生ラスコルニコフは、自分の学業を終えるために、また母と妹の貧しい生活を補助するために、多少の金を得たいと始終考えている。妹は自分の身を犠牲にして賤しい金持の男と結婚しようとする。また彼の愛するソーニアという少女の一家は、想像に絶した貧困のどん底にある。彼はますます金を欲する。そして不正な金貸を業としてる老婆を殺害しようとする。彼はその殺害を自ら弁護するために、唯物論的思想に頼る。人間は優者と劣者との二つに区分されるものであって、一般の道徳的法則は、優者に対して――例えばナポレオンの如き偉人に対して――何等の拘束力をも持つものでない、というようなことを論証しようとする。従って、彼ラスコルニコフを生かすためには虱のような老婆一匹をひねりつぶしても構わないと結論する。そして彼は遂に罪を犯す。
 ところで、こういう風に種々の事情をつみ重ね、種々の理論をふりかざしながらも、ラスコルニコフをして老婆を殺害させることに作者が如何に困難を感じたかが吾々読者にははっきり分る。そして殺害後のラスコルニコフの自責や悔恨を述べるに当って、作者の筆が如何に平易に走っているかがはっきり観取される。
 そこで、結論をいえば、ラスコルニコフのような真面目な青年は老婆を殺害してもその金を盗み出すことが出来なかった如く、元来老婆を殺害出来るものではない。彼を殺害行為に導くために作者が如何に困難を感じたか。そして殺害後の悔恨を述べるのに作者が如何に慰安を感じたかが、すでに右のことを証明している。そこでこの小説は、あり得べからざる殺害行為を説明せんがための、精緻な深刻な心理解剖である。人間はこんな風に人を殺すものではない。それがかりに殺したとしたら、こんな風であるかも知れない。
 ブールジェの「弟子」は、或る道徳的な意図を以て書かれた小説であって、決定論者シクストの著書が、純情な青年を如何に誤らせるかを示したものである。がその中心は、この青年が師の理論を実験せんがために、一人の令嬢を誘惑して、恋愛心理の細かな記録を取り、遂に情死の場面にまで導き、彼女を一人自殺させるに至るまでの、愛欲と理智との紛糾を描いたものである。そして特に目立つのは、この青年の理智的な恋愛解剖が精妙を極めてるのに比してそれを裏切る本能的な愛欲が如何にも生彩に乏しいことである。そして作者自身、令嬢の兄の行動に――情意と行為との世界に、或る郷愁を感じるらしいことである。
 そしてここでも、一足とびに結論をいえば、この小説はあり得べからざる恋愛の精妙な心理解剖である。主人公ロベールの一人きりの思索については、作者の筆は自由にのびているが、恋人シャルロットとの二人の場面については、作者の筆は渋りがちである。若い男女はこんな風に恋愛するものではない。それがかりに恋愛したとしたら、こんな風であるかも知れない。
「罪と罰」や「弟子」のような作品が、文学上の名作であることには、異議はない。名作たるだけの多くの資格を具えている。が然し、ただ一つ吾々の見遁してならないことがある。それは仮想の上に成立ってる作品だという
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