を打たせたまま、もうおれもこれはどう藻痒こうと、花江から放れることがとうてい出来そうにもないと強く思った。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](「馬車」――横光利一)
右はどちらも、短篇の結末であり、女と別れるところである。そして一方は都会の朝であり、一方は山間の夜であって、それと同じくらい気分の違いがある。が、吾々の眼を惹くのは、同一人の作品とは思えないほど、作者としての態度が異なっていることだ。前者においては、感覚的な新鮮な描出をねらってる作者の姿が見えるし後者においては、心理的な緊密さを求めてる作者の姿が見える。「無礼な街」から「馬車」までには、七年あまりの時が経過している。この間に作者の歩いた途が正しいかどうかは、読者の判断と嗜好とに任せよう。そして、「馬車」には現実的な豊満さが乏しいと非難する者があるなら、「無礼な街」には現実から遊離した軽佻さが更に目につくではないかと、それだけいっておきたい。
何等の先入見もない新らしい眼で見るということは、作家にとって最も必要なことである。赤児の眼に映る外界が、如何に驚異に満ちた輝かしい溌剌としたものであるかを、吾々は想像する。その赤児のような眼で外界が眺められるならば、至るところに宝石が発見されるだろう。吾々が平常見馴れていて一顧もしないようなところに、燦然たる宝石の輝きを発露さしてくれる作家があったら、吾々はどんなにか生き甲斐を感ずるだろう。
作品が古いとか新らしいとかいうことは、多くは、作家の眼の感覚が古いか新らしいかに由来する。芸術作品にあっては、内容と表現とが一つのものであるという限りにおいて古い眼の作家から新らしい作品が生れるはずはない。
そして作品が新らしいということは、生動してることの別名であり、古いということは、枯死してることの別名である。優れた作品は常に新らしいとは、こういう意味においていい得らるる。
作家は、新らしい眼で以て、新鮮な感覚で以て、なおいえば、溌剌と生動してる感性で以て、対象を見なければならない。
然しそれは、人間の生活的現実に対する見方であって、その態度の全部ではない。新たな感覚に奉仕することが、作家としての態度の全部になる時、創作の上にまやかしの組立が生じてきて、絢爛ではあるが空疎な作品が生れてくる。
ジュール・ロマンの「某人の死」という小説から、面白い一節を引用してみよう。――
[#ここから2字下げ]
……夕方であった。光は太陽と共に西へ立戻るために、事物から離れかかっていた。事物とその光線とが見分けられない昼間のように、そんなに密接に光りはくっついてはいなかった。少し離れて浮んでいて、事物の息が持ちあげてるヴェールのようだった。
……家々にはランプがともされていた。窓掛が引かれてるにも拘らず、(外から)内部が見えた。なぜなら、昼間は、人家が街路を見街路へ思いを向けているが、晩になると、街路の方が人家を見ランプへ思いを向けるのである。
[#ここで字下げ終わり]
こういう一節をよむと何等まやかしの組立もないしっとりと落付いた或世界が、ほのかに感ぜられる。これは単なる思い付や単なる感覚による描写ではない。実際この作品は、個人と社会、個物と万象、その間の交錯関係、そんなことが主題となってるものである。そして右のような描写筆致は、そこから自然に生れてきたものである。
感覚的探求は、何等かの創作態度の裏付があって、初めて有力に生かされる。とともに、新たな創作態度には、必ず新たな感覚的探求が伴う。芸術は、理性的な世界によりも、より多く感性的な世界に属する。
心理的探求
新らしい感覚で現実を見直すということは、干乾びた芸術を新鮮にする第一条件ではあるが、更に外に現われた可見的なものに止まらずに、その内部にまではいりこんでみようという努力がなされる。それが人間を対象とする時には、人間の内部生活――精神生活にまでふみこむことになる。そうして人間の内部を覗いてみると、如何に雑多な情意の錯綜がそこにあるか、如何に奥深い世界がそこに横たわっているかに、今更ながら驚かされる。その世界を探求し闡明しようとするところから、心理主義の小説が生れる。
固より、如何なる小説でも、心理を全然無視したものはない。人間は心意の動きによって行動する以上、人間を描くに心意の動きを除外することは出来ない。ただ、自然主義が外部の現われを主として辿るのに反して、心理主義は内部の心理を直接に描こうとする。自然主義が外部から人間を見ようとするのに反して、心理主義は内部から人間を見ようとする。
こういう心理主義は、古くからあったもので、あらゆる時代に存在していた。そして現代の新らしい心理的探求から生れてきた心理主義とは、全く面目を異にしている
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