及することが少なかったのは止むを得ない。現代小説の中堅的胴体とでもいうべき作品や作家、即ち、最も広く人を引きつけてる作品や最も主立った作家などについて、殆ど沈黙を守ったことに、読者は不審を懐かれるかも知れない。然しその中堅的胴体なるものは、いわば現在では不動の状態にあって、全体的傾向の推移には関係の少いものであるし、且つ、少しく文芸に関心を持たるる読者には馴染の深いものであって、僅かな紙数のうちにわざわざ言及する必要はあるまいと思ったのである。
それに実は、全体的傾向の推移を述べながら、私は一つの現象を殊に強調したかったのである。それは在来の見解によるいわゆる小説が解体の方向を辿ろうとも、それを顧みずに、小説なるものを吾々の実生活に近づけ、生活感を豊富に注ぎこもうとする傾向である。感覚的探求は新らしい眼で現実を見直すことを要求し、心理的探求は個人生活の相貌を直接に表現することを要求し、社会的見解は群衆の魂の叫びを響かせることを要求する。そしてその手段方法のうちに、幾多の危険があり、文学的歪曲の恐れがあることを、私はわりにくわしく説いてきたつもりであるが、然し、全体として小説のこの傾向は喜ばしいことである。なぜなら、それは、生活から遊離しようとする文学を生活に引戻すことであるから。
自然主義が行きづまって以来、文学は生活から遊離して、生活意欲を帯びることが甚だ稀薄になってきた。とともに、資本主義の行きづまりは、社会全般を一種の神経衰弱的焦燥に陥れ、階級闘争の尖鋭化と生活的停滞層の拡大とを招いて、或は文学を顧みる余裕なからしめ、或は文学を娯楽物化しようとした。その全体の結果として、文学は実生活からの逃避所となる傾向にあった。
いわゆる通俗小説は、読者に甘えて、そういう逃避所を提供するものである。通俗小説は作者の生活意識や生活意欲を盛ったものではなくまた読者のそれらに訴えるものでもない。通俗小説が読者に流させる涙、読者の胸にそそり立てる感情、読者の頭にわき立たせる夢想や空想などは、読者をしてその実生活を忘れさせ、娯楽的逃避所に遊ばせる以外の、何物でもない。そしてそれは、真の小説から――文学から――芸術から――遠いものである。芸術は吾々の実生活から咲き出した花でなければならない。芸術家は生活的病人の逃げこむ病院を設計するものであってはならない。
娯楽的逃避所から生活
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