場裡へ文学を引戻すには、作者自身に強い生活意欲がなければ出来ない。然るに多くの作家は――殊にその大多数のインテリ作家は――生活意欲が甚だ稀薄である。彼等は実生活については、先ず何よりも懐疑家である。
 このことについて、私の頭に、ハムレットとドン・キホーテの二つの性格が浮かぶ。
 セークスピヤが描いたハムレットと、セルヴァンテスが描いたドン・キホーテとは、世界の文学が有する最も著名な二つの性格である。これについては、ツルゲネーフの言葉を少しく引用したい。
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 ドン・キホーテはその理想に対する献身によって色づけられている。その理想のためにはあらゆる困苦に堪え、その生命をも犠牲にする覚悟がある。……彼は同胞のために、人類に反対する力――妖魔や巨人――即ち圧制者に抗せんがために生きる。……それ故に、彼は恐れを知らぬ不屈不撓の人間である。彼は粗衣粗食に甘んじる。他に考えることがあるからである。心は貧しいが、意思は偉大で勇敢である。……ハムレットとは何者か。なによりも先ず解剖、そして自我主義で無信仰。彼は全然自己のために生きる。……だが自分自身を信ずることは――それは自我主義者にも出来ない。吾々は自分以外のもの自分以上のものしか信じ得ない。……凡てに疑惑を持つが故に、ハムレットは自分自身をも赦すことが出来なかった。彼の智力は彼が自分自身の中に見出すものに満足するには発達しすぎている。彼は自己の脆弱を感じる。だがその自意識の悉くは力である。彼の皮肉はそこから来る。……財産も係累もなく年老いた孤独な乞食に等しい貧しいドン・キホーテは、あらゆる邪悪を救治し、全世界の圧迫されたる未知の友を防護しようと企てる。……有害なる巨人と戦わねばならぬと考えながら、実は有用な風車を攻撃していようとも、それは彼にとって何の関るところぞ。……そういうことはハムレットには起り得ないことである。彼の聰明な教養ある懐疑的な頭脳をもって、どうしてそんな間違いが出来よう。彼は決して風車と戦いもすまいし、巨人を信じもすまい。だが、たとい巨人が実在したにしても、彼はそれを攻撃はしなかったろう。……しかもハムレットは懐疑家であって、善を信じなかったが悪をも信じはしなかった。悪と虚偽とは彼の相容れない敵である。彼の懐疑主義は局外主義ではないのである。
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 このハムレットと
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