たのに似ている。「レ・ミゼラブル」のなかに書かれてることは、ブルジョア社会の道徳的説明と人道主義的正義感の高唱とであり「資本」のなかに書かれていることは、資本主義社会の経済的説明と階級意識の示唆とである。そして主人公のジャン・ヴァルジャンもゼッド・ラッシャーも、作者の頭脳的傀儡であって、人間としての生きた心臓はごく僅かしか持たない。
こういう方向に文学が進む時、遂には文学から生きた性格が――人間としての生活感を具えた性格が――駆逐される。そして文学は論文や統計や記録に近づいてゆき文学としての解体の途を辿る。
文学が解体したとて、一向差支えない。「レ・ミゼラブル」や「資本」はそれ独自の価値を持っている。しかしながら、それほど独自の価値を持たない非文学的文学は結局一の顛落に過ぎない。そしてこの顛落から文学を救って、文学として価値を持たせるには、新らしい性格の描写によるのほかはない。文学者の視野においては、社会的変革ということは、生活様式や社会組織の変化などよりも、新らしい人物性格の発生を意味する。婦人解放の機運は、イプセンにノラを描かせた。富裕なロシヤ貴族の遊惰は、ゴンチャロフにオブローモフを描かせた。自由主義の思潮は、ツルゲネーフにバザロフを描かせた。そして新らしい性格は目的意識に支配された公式的作品の中におけるよりも、そうした意識に囚われない作品の中により多く見出される。アンリ・バルブュスの作中の人物によりも、ルイ・フィリップやフランシス・カルコの作中の人物に、吾々はより多くプロレタリアの真の姿を見出す。
だが、新らしい性格を描くことは、如何なる時代の如何なる文学にも共通の肝要事である。プロレタリア文学が開拓した特殊の領土は他のところにある。
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真夜中すぎに、沖で、音が聴えた。トン・トン・トン・トンと――たしかに、発動機の音だ。それが、聴えた。近づく気配だった。部落全体の者が、ワーッと叫び声を上げて、吹雪のなかを、浜辺へ、駆け出した。そして、何も見えない真暗な沖を見ようとして、焦り、耳を凝らした。そして、待った。が、たしかに聴えた機械らしい音は、いつの間にか、聴えなくなっていた。が、みんなは、吹雪に顔を打たれながら身体を固くして、ゾクゾクと奈落へ沈んでゆく気持とたたかいながら、立ちつくした。――そして、みんなは、先刻のあれは、遠い沖を走
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