るところにある。そして説明が主となったのは、目的意識があまりに露骨に働いたからに外ならない。
[#ここから2字下げ]
百二十五人の女工が一列に並んだ。みんな腰の周りだけに四角い布を垂れていた。
――前イ――
と四十面の女工監督が気取って号令した。
女工たちは汗と肌の匂いを発散させながら歩きだした。
乾燥室はその性質上から二階にあったので階段を降りねばならなかった。梯子段の下には高さ一尺の横板が立ててあった。それは「オマタギ」と称ばれていた。
女工監督が横板と女工たちの膝前に目をそそいだ。
一人一人の女工は、体操をするように股を水平に上げて横板をまたがせられた。それは紙幣や切手などを何処かにかくしていないかと検べる為であった。
向うの現場の階段下でも素裸の男工たちが一尺五寸の横板をまたがせられていた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](「紙幣乾燥室の女工」――岩藤雪夫)
この「オマタギ」の一節は、決して吾々の眼にその情景を彷彿させはしない。ただ吾々の観念に訴えるだけで、感性に何物をも伝えない。作者は他の目的意識に囚えられて、この情景を素通りしてしまっている。「オマタギ」の情景などはつまらないというならば、それまでのことであるが、然し、プロレタリア・レアリズムは、観念にのみ訴える説明の病弊を救わんがために説かれたものではなかったか。
露骨な目的意識は、作品を公式化し、方程式化し、具体的描写を離れて観念的説明に陥らせる。そして作中の人物を、生命のない傀儡たらしめる。
アプトン・シンクレアは、その小説「資本」のなかで、主人公ゼッド・ラッシャーを方々へ引張り廻して、吾々に種々の社会面を見せてくれる。牧場地のこと、甘庶栽培地のこと、それから或る大学校のこと、富豪ワーナー氏の家庭のこと、次に石油発掘から会社経営のこと、財界のこと……。そしてそれはみな、近代の資本主義が如何様に構成されているかを説明せんがためであり、その内部のからくりを暴露せんがためにである。そして主人公ゼッド・ラッシャーは、作者の単なる傀儡にすぎない。この傀儡を操ることによって、作者は吾々に資本主義社会の欲望と相貌とを示してくれる。それは恰度、ヴィクトル・ユーゴーがその小説「レ・ミゼラブル」のなかで主人公ジャン・ヴァルジャンという傀儡を操って、ブルジョア社会の道徳を解剖し暴露し
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