あっては自分の生活と縁遠い方面に材料を求めることは、極めて困難であり、たとい材料を探し得ても、それを書き生かすことは更に困難である。半年間労働者街に住むことによって、藤森成吉は果して何を得たであろうか。レオニード・レオノフは「のんだくれ」を書くのに、一年間工場生活をしなければならなかった。マリエッタ・シャギニアンは「水力発電所」を書くのに、二年間水力発電所に労働生活をしなければならなかった。しかも、その生活も彼等にとっては一時の宿場に過ぎないし、プロレタリアートにとっては彼等は単に一時の同伴者にすぎない。
 近年ロシヤに起っている職業的作家廃止論と文学突撃隊の試とは社会主義の社会における人間の生活は斯くあらねばならない、という理想論から出たのではあるとしても、実情はむしろ文学の行き詰りから叫ばれたのである。作家も大衆の一部分で、隔離した特殊の階級に属すべきものではなく、小説家は小説家たると同時に、何等かの労働に従事する者でなければならない、と職業的作家廃止論を説く。それは理想としてはよろしい。がそういう理想が起ってくるのは、職業的作家の文学がプロレタリア的観点から見て行き詰ったからに外ならない。そしてこの職業的作家廃止論と関連して、文学突撃隊の召集が成された。各地の工場や農村の労働者から人選してそれに一通りの文学的素養を授け真のプロレタリア文学を創作させようというのである。そして文学突撃隊の創作は、ロシヤ・プロレタリア作家同盟の相貌を更新さした。殊に彼等の齎す題材は、プロレタリア文学の主なる題材となった。がこの文学突撃隊の試みは、プロレタリア文学の行き詰りを物語ると共に、それが強権主義から解放されない限りは、恐らくそれ自身もやがて或る行き詰りに当面するであろうことを予想させる。なぜなら、目的意識にだけ囚われた文学は、畢竟一の作文にすぎなくなるから。
 本当のプロレタリア文学は、プロレタリアートの生活を反映したものでなければならない。然るに闘争のためという目的意識は、反って文学を生活から遊離させる結果を将来する。
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 金華山の沖は波の荒いので有名だった。太平洋の涯から、山なす怒濤が、あとから、あとからじかに打ちつけて来た。船を揉み、放り上げ、うねりの底へ引き摺り降し、また抛り上げた。船は始終、寒気と、転覆の危険と、たたかいながら、吹雪や霧のために
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