から2字下げ]
 プロレタリアートの文学は階級闘争の武器以外のなにものでもない。これに従って、プロレタリア芸術家の全く独特なタイプに関する問題もまた提出されなければならぬ。プロレタリア芸術家は決して現実の単なる受動的観察者であることはできない。彼は彼の創作的活動を階級の解放闘争に結びつけるところの革命的実践家である。このことは、プロレタリア芸術家が彼の創作の中に自分自身を閉じこめ階級闘争の過程から離れることを許されない、ということを意味する。彼は階級闘争における闘士であり参加者である。彼の芸術は徹頭徹尾能動的であり活動的である。
[#ここで字下げ終わり]
 右は、一九三〇年十一月ハリコフにおける国際革命作家同盟国際会議の決議の一節である。これだけの中に既に、プロレタリア文芸の明確な規定がある。もとより、各プロレタリア作家のうちには、その見解に多少の差異があり、その目的方向に多少の差異があり、そしてそれは、闘争的実践において止むを得ない現象ではあるが、しかし、プロレタリアートの独裁社会を目標とし、ボルシェヴィキ共産党を主体とする限りにおいてプロレタリア文芸は大体右の基調の上に立っている。
 かくてプロレタリア文芸は、従来の観照的な文芸を拒否して、文芸を階級闘争の武器たらしむるがために、特殊の熱と鋭さとを持つようになる。それは意欲の萎微した文芸に対する一つの警鐘である。と共に一方では、これまでブールジョア文学に顧みられなかったプロレタリアートの生活を描出する。工場内の労働者の生活、田舎における農民の生活、海上に働く船員の生活……。しかもそれらを感傷的な人道主義的な眼で眺めるのではなくて、如何なる搾取によって虐げられてるか、如何に惨澹たる境涯に喘いでいるかを、無慈悲に摘発して、彼等に反抗の気勢を鼓吹し、資本主義に対する攻撃の矢を放つ。そしてこれは、文芸にとっては一つの新らしい領土の開拓となる。少くとも、文芸に新らしい目的意識を持たせることにおいて、文芸に新らしい使命を帯びさせることになる。
 これを見るには、何等かの作品の一節を引用するのでは足りない。作品全部を引用しなければならない。例えば葉山嘉樹の「海に生くる人々」、小林多喜二の「蟹工船」、徳永直の「太陽のない街」などを全部引用しなければならないだろう。そこでこの引用は、読者の繙読にゆずって、論旨を先に進むれば、上述の
前へ 次へ
全37ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング