らない。――とマルクス主義者等は説く。
芸術の衣を着せるという見方のうちには、いわゆる「芸術のための芸術」に対する根本的否定が含まれており、芸術に芸術以外の目的を持たせようという要求が含まれている。
この要求は正しい。少くとも、芸術を何等かの意味で娯楽機関だと看做す考えを排斥し、芸術には作者の生活意欲が籠っていなければならないと主張する吾々にとっては、それは正しい。ただ問題は、芸術の持つその目的が如何なるものであるか、ということにある。
マルクス及びその一派の唯物弁証法は、社会のあらゆる現象を先ず経済的見地から見る。例えば芸術についても、もろもろの生産力の状態を第一に考察し、それらの生産力の状態によって決定される社会的環境を第二に考察し、それから作者及び作品に及ぶ。多少の差異はあるけれども、ラブリオラ、プレハーノフ、ブハーリン、イコーウィックなどの芸術論は、みな同じような考察の筋途を辿る。
弁証法的唯物論による資本主義のからくりの暴露と、搾取階級と被搾取階級との甄別《けんべつ》とは、広汎な社会主義運動をまき起し、ロシヤにおいてはボルシェヴィキ革命を成就さした。
ところで、文芸に関係ある事柄として、ここに一つ断っておかなければならないのは、ロシヤの革命は根本的な社会革命ではなくて、実は権力の移転に過ぎないという一事である。十八世紀末のフランス革命は、貴族や僧侶の階級から第三階級ブールジョアジーへ権力を移転さした。恰度それと同じように、ロシヤ革命は、ブールジョアジーからプロレタリアートへ権力を移転さした。ただそれだけのことである。もとより、ブールジョアジーの支配する社会とプロレタリアートの支配する社会とは、おのずから面目を異にするのは当然であるが、強権主義であることには変りはない。単に強権主義の点から見れば、帝政ロシヤとボルシェヴィキのロシヤとは些かの変りもない。そしてこの強権主義は、文芸の上にも重くのしかかって軛を課し、ただ二つの目的を強要する。ボルシェヴィキの思想や主張の擁護者たれと命令するばかりでなく、直接その陣営に参加することを要求する。全社会が単一階級に還元された暁は知らないが、それまでの間は、その実現に向ってあらゆる努力を集中せよと命ずる。
かかるロシヤを盟主とする世界各地のプロレタリア文芸が、同様の軛を課せられることはいうまでもない。
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