して、社会現象が特殊な性質を持ってることを明かにした。即ち社会現象は、心理学者等が研究した個人生活の現象とは全く異ったものであり、社会は個人の合計ではないことを、彼等は立証した。なおいえば、社会は個人を説明することが出来る、然し個人は社会を説明することが出来ないのである。
右のような社会状態と思潮とは、文芸界にも新らしい見解を起させた。個人生活ばかりを対象とせずに、群集の動き、人間集団の息吹きを、直接に描きたいというのである。ゾラやハウプトマンやヴェルハーレンやホイットマンなどは、小説や戯曲や詩などの形式で、既に多少の試みをなしている。が現代に至って、最も明瞭に右のことを主張したのは、「ユナニミスム」の一派である。
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総体的生活には一の意識が発生する。都市や村落はその自己を知ろうと欲する……。吾々は吾々の書物の著者ではない。吾々は単に、総括的存在が自己を表現せんがために取上げたところの、多少とも不完全な器官にすぎない。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](ジュール・ロマン)
ここにいう総体的生活とか総括的存在とかいうものは、全く個人を離れた社会的な集団的なものであって、そこではもはや個人は一つの単位とさえもならない。或る何等かの団体は固より、一つの町、一つの街路、一つの劇場にさえ、全く現実的な生きた一つの生命があり、生活があるのである。
それ故、ジュール・ロマンの小説「更生した町」では、共同便所に書かれた一寸した落書が、人々に読まれ註釈され論議されて、その影響により、今まで惰眠を貪ってた寄生的な町が、俄に活動的な生産的な町に変る。「某人の死」では、単に或る葬式に参加したというだけの記憶が、一人の青年に超個人的な普遍的な大きな魂を感知させる。
各都市にはその都市固有の魂があり、各集団にはその集団固有の魂がある。そしてその魂は、各個人の魂の合計ではなくて、生きてる一つの実体であり、それ自身の生活を営む。そういう超個人的な総体的な生命を、「ユナニミスム」は把握し描出しようとする。それは確かに、文芸に一つの新らしい視野を齎すものである。然し、その超個人的な総体的な生命を発生さしたものは何か。それは近代の経済的社会的条件に外ならない。その条件を闡明することを措いて、現われたる現象だけを取扱うことは、それに芸術の衣を着せることにほかな
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