いての考察ではなくて、あらゆる雑多な事柄の堆積である。彼は内部世界の深淵から、記憶の連鎖をたどって、あらゆるものを掬い上げてくる。そしてその「私」は自我ではなくて、私であると共に宇宙全体なのだ。
吾々が普通に「私」と称するものは――自我は――局限された狭い小さなものに過ぎない。その局限を取除いて、あらゆる場合に「私は」というところの「私」にまで到達すると、その「私」なるものは、過去現在を包容し、意識の世界ばかりでなく、潜在意識の世界をも包容し、内部世界と外部世界とを一色に塗って宇宙的に拡大される。その拡大された「私」のなかのあらゆる事象を、取捨選択することなく、そのまま書き誌していったのが、プルーストの小説である。
吾々は潜在意識或は無意識の世界に沈んでるものを文字に書き現わすことは出来ない。書き現わせるのは意識の世界に浮ぶことだけである。そして小説的な構想を拒け、理論的な取捨選択を拒け、意識の世界のことをその本来の姿のままに描こうとするに当って、プルーストは主に記憶の連鎖をたどっていった。がジェームズ・ジョイスは、意識の動きを直接に跡づけようとした。「意識の流れ」をじかにたどろうとした。
[#ここから2字下げ]
彼はドーセット通りを歩いて帰った、むつかしい顔をして(包紙を)読みながら。アジェンダス・ネタイム……拓殖会社……。彼は鉄色の炎熱に霞んだ家畜を視た。銀色の粉末を振りかけた橄欖樹。静かな長い日……刈り込まれて成熟していく。オリーヴは瓶詰にするのだろうな? 家には、アンドルーズの店から買ったのが二つ三つ残っている。モリはあれを吐き出すんだ。今ではオリーヴの味が分るらしい。オレンジは薄紙に包んで枝編み籠に入れて荷造りされる。シトロンも同様だ。あのシトロン君はまだ聖ケヴィンズ・パレードに達者で勤めているかしら? またあの古めかしい琵琶を持ってるマスティアンスキ。あのころの俺達は楽しい夕を過したものだ。シトロン君の籐椅子に腰掛けたモリ。手に持つのはいい気持だ、冷たい蝋のような果物、手に持って、それを鼻孔の方へ持っていって芳香を嗅ぐ。あれみたいだ、あの豊かな甘美な野生的な匂い。何時も変らない、来る年も来る年も。それに高価に売れるんだとモイゼルが俺に話した。アービュタス・ブレース……ブレザンツ街……愉しい昔。瑕一つあってもいけないと彼は言った。遙々とやってくる……
前へ
次へ
全37ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング