アルフレット・デプリーンの小説「アレクサンダー広場」は、吾々が現実に見るベルリンの町ではなくて、作者の内部から流出して音楽や映画みたいな形式で構成されてる、ベルリンの町である。
超現実主義の作品は往々不可解なものとなり、新即物主義の作品は往々支離滅裂なものとなる。然しそれは、理性的な意識で作品に対するからだと、彼等はいう。
[#ここから2字下げ]
われわれの周囲にあるいろいろのものは不動の状態を負わされている。恐らくそうした不動の状態は、われわれがそのものはそのものであって他の何ものでもないと確信しており、それらのものに対してわれわれの考えが不動だからであるのである。いつものことなのだが、こんなふうに眼を覚すと、私の精神はむなしく私が何処にいるかを知ろうとして動揺し、ものや国や、年月日などが凡て、私のなかで、私の周囲をぐるぐる廻るのであった。ひどく痺れていて身動きのできない私の体は、その疲労の形に従って、手足の位置を決め、それによって、壁の方向、家具の場所を推定し、自分のいる家を今新に組み立てて、名をつけようとする。体の持っている記憶、肋骨や膝や肩の持っている記憶は、嘗て体の眠ったことのある部屋をたくさん次々に体に見せるのであった。その間、体の周りには、眼に見えない壁が、想像された部屋の形に従って場所を変えながら、闇のなかに旋回し続ける。……私の体、私の下にしている脇腹は、私の心のどうしても忘れえない過去を忠実に覚えていて、細い鎖で天井に吊した壺形のボヘミヤ硝子の豆ランプの焔や、シェナ大理石のストオブを私に思い起させた。それはコンブレエの私の寝台、祖父たちの家での遠い昔のことで、今ははっきり心に思い浮べないで、現在のことのように思っているが、やがてすっかり眼が覚めたなら昔のことだったとよく分ることでもあろう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](淀野・佐藤共訳)
これは、マルセル・プルーストの小説「失いし時を索めて」の一節である。そしてこの主人公「私」は、体の持ってる記憶からばかりでなく、一杯の茶の香りからさえ追憶の連想によって、昔から今までのさまざまなことを意識の表面によび戻して、それをじいっと考え続けるのである。一人の少女に出逢ってから、それに初めて言葉をかけるまでの間に、百ページを満たすだけのいろんなことを考える。しかもその百ページは、愛につ
前へ
次へ
全37ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング