いことを、次第に立証して行きつつある。そしてこの精神生活全体を描きたいという欲求が、文芸界に起ってきた。
 上述のような影響を受けた新らしい文芸が、普通の意識の世界ばかりでなく、更に広く深い潜在意識或は無意識の世界を重要視するのは、当然のことである。そして説明のための心理解剖から、描写のための心理的探求に変ってきたのも、当然のことである。
 例えば、超現実主義を瞥見してみよう。超現実主義は、普通に吾々が現実と看做してるもののも一つ奥の現実を信ずるもので、夢の世界の確実性と思想の独自な働きとを信ずるのである。夢というものは、吾々の無意識の世界が時あって吾々の意識に反映するものに外ならない。それをそのまま描こうというのだ。そして思想の独自な働きを尊重して、何等理性の拘束も加えず、修辞学的な配慮や道徳的な配慮を拒けて、思想の動くままに筆を走らせようというのだ。
 超現実主義の主唱者アンドレ・ブルトンは、或る晩、眠る前に、明瞭な一つの文句を耳にした。それは彼が意識していたあらゆる事柄と全く縁のないもので「窓で二つに切られた男がいる。」というような文句で、それと共に、窓で胴切にされて歩いてる男の姿が、視覚にも映ったのだった。
 こういうことは誰にでも時として起るものであって、それは超現実界の思想が吾々の意識にひょいと顔を出したに過ぎない、とブルトンはいう。そして彼は、吾々の精神が一々批判を下す遑のないほど急速な独白を、時として或る種の病人がなすのを見て、思想そのものの速度は舌やペンの速度よりも早いと推定した。その推定を実証するために、彼は友人のフィリップ・スーポーと一緒に、あらゆる意識的な考慮をぬきにして、思想の動くままにやたらにペンを走らしてみた。そして出来たものは殆ど判読し難いものではあったが、それこそ実は、思想そのものの独自な姿を如実に示すものだというのである。
 かくて超現実主義は、文学を理性や修辞学から脱却させて、吾々の精神の本来の働きを自動的に記述させようと試みる。
 また例えば、新即物主義もほぼ似通った見解の上に立っている。新即物主義は元来、抽象的な観念を排斥し、空虚な感情の昂揚を排斥して、事物の直接把捉を主張したのであるが、写実的な外形的な叙述を無意味であるとし、所謂報告文学のようなものを無価値であるとして、作者の無意識的な内部運動を重要視する。従って、例えば
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