スペインはジブラルタル、地中海、レヴァント。ジャファの波止場には枝編み籠が整列している、一人の若い男がそれを勘定しながら帳合せをしている、汚いダンガリ製のズボンをはいた仲仕どもがそれを積み込んでいる。おや、何とかいった野郎が出て来たぜ。お早う! 気がつかない。ほんの挨拶をする位の知合というものは少々うるさいもんだ。奴の後姿はあのノルウェーの船長に似ている。今日奴に会うのかな。撒水車。わざと雨を呼び出そうとするようなもんだ。天になる如く地にもならせ給え、か。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](森田草平ほか五氏共訳)
これは「ユリシーズ」の一節である。そしてこの小説が、ホーマーの「オディッセー」から骨組を取ってきたことや、ダブリン市における一小市民の一日の経験記録にすぎないことや、しかも二十世紀の各種の思想や世相や性格の圧縮図であることなどは、ここでは大した問題ではない。重要なことは、行文の紛糾錯雑を顧みずに作者が「意識の流れ」をじかにたどろうとした企図、全く句読点のない文句の連続――観念の連続――の四十頁を最後に必要とした態度である。
以上述べたような――その例を外国にばかりとらねばならなかったことを私は遺憾に思うのであるが――いろいろな主張や作品は、文芸に新らしい領土を開拓した。これまでの文芸は、人間の行動を主にその対象としていた。心理解剖でさえも、全く行動の説明のためのものであった。然るに新らしい心理探求は、人間の内部の世界――精神の世界――の広大さを発見して、写実主義或は自然主義が外部を描写しようとしたように、その内部世界を描写しようと試みる。いわば、外部の現実のほかに精神内部の現実を発見して、それを如実に描写しようというのである。
ところで、この新らしい描写の対象となる精神の内部世界――意識の世界――は、広く深い潜在意識或は無意識の海洋に浮かんでる一小島に過ぎないし、それ自身錯雑を極め変転限りないものであるから、随ってその描写も理路整然たることは不可能である。
この方向を辿る時、小説はおのずから解体され、その様式は破壊される。在来の小説という概念にあてはまらない作品が生れてくる。プルーストの「失いし時を索めて」やジョイスの「ユリシーズ」などはその例である。
小説の様式を破壊し、小説という概念から脱却して、新らしい作品を生むということは、
前へ
次へ
全37ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング