九の女に「わたし」という青年が立退きを談判してる一節である。新鮮な感じに溢れている。新らしい感覚で捉えられたものが、ぴたりと表現されている。
 ところで、この一節或は「風」全篇を読んでみると、吾々は何かしら或るまやかしを感ずる。前に述べた通り、内容と表現とを合致さしたその全体に、或るまやかしを感ずる。人生の現実の上に、何者かが何かを組立ててるように感ずる。
 自然主義が、自己を空しうして余りに対象を凝視しすぎたため、或る璧につき当ったのとは逆に、感覚による探求は、ともすると、感覚の作用にばかり頼りすぎて、対象の凝視がおろそかになる。そこに危険がひそんでいる。
 対象の凝視は、対象をしっかり把握せんがためのものである。そこで、対象の凝視が足りず、随って対象の把握が足りなくて、感覚がひとり跳梁する時、一種の曲芸が起ってくる。まやかしの組立がはじまってくる。空中楼閣が築かれてくる。絢爛な空疎な作品が生れてくる。
 作品の内容と表現とが一致することは前に述べておいた。それで絢爛な空疎な作品というのは、内容が空疎で表現が絢爛だという意味ではない。内容も表現も、即ち作品そのものが、空疎で絢爛なのだ。軽くてぴかぴか光る玩具のようなものだ。それは所詮、生活逃避の娯楽器具に過ぎない。
 辛辣な[#「辛辣な」は底本では「辛竦な」]諷刺を取忘れたナンセンス、愛欲の根を張らないエロチック、怪奇な戦慄を伴わないグロテスク……などは、感覚的探求の迷路といってよい。
 ただ一つ注目を要するのは、感覚を主とする新らしい神秘主義である。これはまた心理的探求の支持を必要とするが、然し、科学的な理智的な神秘主義、アラン・ポウのような神秘主義と異なって、おもに感覚的に進んでゆくところに特色がある。
 川端康成の「抒情歌」のなかの女は、床の間の紅梅の花を、亡き恋人の霊と見立てて、それに話しかける。――
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 覚えていらっしゃいますか。もう四年前のあの夜、風呂のなかで突然はげしい香におそわれた私は、その香水の名は知らぬながらも、真裸でこのような強い香をかぐのは、たいへん恥しいことだと思ううちに、目がくらんで気が遠くなったのでありました。それはちょうど、あなたが私を振り棄て、私に黙って結婚なされ、新婚旅行のはじめての夜のホテルの白い寝床に、花嫁の香水をお撒きになったのと同じ時なのでありました
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