寥を湛える。其処を歩いていると、電車路を走る自動車の音も耳を煩わさない。対岸には、小さな社宅か寄宿舎らしい粗末な建物があり、それが人間生活の玩具箱のように見え、東京駅の大ドームが、空洞な廃墟のように思われる。――但し昼間のことは知らない。
 私はその河岸ぷちを歩くのが好きで、銀座あたりで夜が更けても、わざわざ足を運ぶのだった。そして其処では、おのずから高声に物を考えるのだった。
 ドン・ファンが深夜、河岸ぷちを歩いていると、悪魔が出て来た。「悪霊」のスタヴローギンが深夜、河岸ぷちを歩いていると、懲役人のフェージカが出て来た。だが有楽橋から呉服橋へかけたあの河岸ぷちには、深夜と雖も、悪魔も懲役人もいない。垂れさがってるしなやかな柳絮が、さらさらと帽子をなでるだけである。そしてただ、何故となく、私は高声に物を考えるのである。
 歩きながら高声に物を考えるのは、一のリズムに身を投ずることである。私の心意も肉体も一のリズムに乗って、そのリズムが、或は紆余曲折しながら、或は飛躍しながら、進んで行く。然しそれには、何かの伴奏か、反響か、手応えが、ある筈である。
 そうだとか、そうでないとか、諾否の
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