ルドの洞窟の中で、聖母の姿を見た――白衣をまとい、青い帯をしめ、念珠を帯にさげ、異様な光輝にかこまれていた。
 そういう話は多々ある。ところで私は――。
 もとの一高――今の農科大学と、帝大との間の狭い通りは、どうしてか非常に埃が多く、それに自動車の通行が頻繁だから、余り気持のよいところではない。けれども、どういう加減か、時あって、自動車の通行がとだえ、人通りもとぎれ、地面もしっとりと濡い、空気が爽かになごんで、塀にはさまれたあの短い通りが、夢想の境にふさわしくなる瞬間がある。
 そういう瞬間の一つであったろう。当時大学生だった私は、和服の着流しで、ぶらりと、あの通りにさしかかった。弥生町の方から、ゆるやかな傾斜を上っていった。
 その傾斜が、俄に、急な坂道に変って、坂の上から、一人の女がやって来るのである。背の高いすらりとした姿で、そのうえ高下駄をはき、黒いコートを着て、音もなく滑るようにやって来るのである。
 その顔を一目見て、私は惘然と立止ってしまった。年齢は三十歳くらいの感じで、黒のコートにつつまれた姿は絶対的均勢を保ち、ふっくらした束髪にかこまれた顔には、理想的な女性美を示し
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング