を急がねばならなかった。
 人通りもなく、風もなく、生きものの気配もなかった。堤防の一方は深い川で一方は広い水田であるが、それらは目に見えず、葦や篠笹の茂みの中は、トンネルのようだった。茂みの葉先がさらさらと袖に触れ、時々、蜘蛛の糸が顔にかかる。でも私は、母と一緒なので恐くなかった。提灯もつけず、ぼーとした星明りをたよりに、道を急いだ……。
 そのことが、ただそれだけのことが、私の脳裡にはっきり刻みこまれていて、時々思い出されるのである。
 然し、事実は違うようだ。肺病の秘薬のことなど、先年帰国の折、人に聞いたが分らなかった。また父は、私の七八歳の頃には健康で、肺病になったのはずっと後年である。第一、母と二人で薬買いに夜中に出かけることが、既におかしい。
 それならば、私は右のことを、夢にみたのであろうか、くり返し夢にみたのであろうか。或は幾つもの夢が集まって、右のような幻覚が出来上ったのであろうか。
 葦や篠笹の茂った堤防は、現実に存在する。私の生れた農村から半里余りのところに、平野の中に真直に長く続いている。昼間もあまり人通りがなく、何か兇事の噂でも起りそうなほど、淋しい場所である
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