それとも……。
二三時間前のことが、眼にはっきり見えて来た。それを無理に彼は突きぬけようとした。つかつかとはいって行って、順一の横に坐った。手を伸して額に触ってみたが、生温《なまあったか》いだけで、熱はなさそうだった。
「様子が悪そうなのかい。」
「いいえ。」と竜子は顔を伏せたまま答えた。
「どうしたんだい。」
返辞がなかった。彼は暫く待ってから、火鉢の方へいざり寄って煙草を吸った。
「旦那様は、」と竜子は云った。「お坊ちゃまが可愛くないのでございましょうか。」
何のことだかよく分らないので、その方を見返すと、竜子の真剣な眼付に打たれた。彼はぎくりとした。
「私奥様から、坊やのことを頼むとくれぐれも云われておりますし、それに、自分の児は他人《ひと》にやってしまって、お坊ちゃまが何だか自分の児のような気がして、可愛ゆくてお可哀そうで、離れられませんけれど、いろいろ考えますと、やはりお暇を頂いた方が宜しいようでございますから……。」
ゆっくりした言葉であったが、その調子が上ずっていて、いつもの彼女ではなかった。彼はじっとその顔を見つめてやった。彼女は口を噤んだ。
「嘘だ。」と彼は叫んだ。「お前は僕に意見をするつもりなんだろう。」
彼女は顔色を変えた。
「何を仰言いますの。」
「そうだ、僕に殴られたのが口惜しいんだろう。」
「いいえ。」きっぱり答えておいて、それから俄に彼女は身を震わした。「恐《こわ》いんでございます。恐くって……恐くって……。」
彼は息をつめた。ぞっとした。障子の硝子に映ってる電燈の影を見つめてると、眼の中が熱くなってきた。涙が眼瞼を溢れた。それに自ら気付くと、涙が後から後から湧いてきた。
「許してくれ、僕が悪いんだ。」
彼は竜子の手を執った。がっしりした太い手だった。それが力強かった。彼女の方へ身を寄せると、彼女の方も進んできた。逞しいずっしりとした彼女の腕の中に、彼は我を忘れてもぐり込んでいった。
「旦那様!」
口元の肉を引きつらして、泣いてるのか笑ってるのか分らない皺を刻みながら、眼の奥で微笑んでいた。
底のない泥沼に陥ったのと同じだった。彼は※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]けば※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]くほど、その勢に駆られて没していった。しまいには、自ら進んで絶望的に没していった。
翌朝、彼は離れの押入の中に、秋子の遺骨が出しっ放しになってるのを見出した時、冷たい脂汗が額ににじんだ。
それが夜になると、怪しい幻覚の形を取ってきた。
竜子の前を逃げるようにして、離れの室にやって来、窓の下に据えてる机に向うと、丁度後ろが押入になっていた。それがしきりに気にかかった。いくら努力してもいつのまにかそちらへ注意を惹かれていた。音もしないですうっと襖が開いて、白い布がはらりと解け、白木の箱や骨壷が[#「骨壷が」は底本では「骨※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、57−上−15]が」]まざまざと見えてきた。何か大きな力でねじ向けられるかのように、首を徐々に振り向けてみると、押入の襖は閉まっていた。下半分がただ白くて、上半分に電燈の笠の影を薄暗く受けていた。
彼は怪しい衝動に駆られた。立ち上って押入へ歩み寄り、骨壷を[#「骨壷を」は底本では「骨※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、57−上−19]を」]開いて、中の白いやつを歯でかじった。食塩と灰とを混ぜて噛むような味だった。不気味な戦きが背筋を走った。慌てて室の中を見廻した。誰も居ないのを見定めて骨壷を[#「骨壷を」は底本では「骨※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、57−上−22]を」]しまった。
また暫くすると、彼は同じ衝動に駆られた。立ち上って押入へ歩み寄った。総毛立った顔をして眼を見据えているのが、我ながら不気味に意識された。一寸立ち止ると。ぞっと竦んだ。
彼は堪らなくなって室から飛び出した。廊下の曲り角が陰々として薄暗かった。血の気を失った顔で竜子の前に現われた。
それを竜子は待ち受けていた。
ただ母性のみが持ってる大きな抱擁力だった。子供をも大人をも本能的に抱き込む、鳥黐《とりもち》のような粘り気のある力だった。彼はほっと息をついた。
然し間もなく、忌わしい反撥の気がむらむらと彼の心に湧いた。彼は彼女を押しのけて立ち上った。
眼に険を帯び、口元から頬へ皮肉な色を漂わせて、そのどっしりとした身体全体で、彼女は彼方をじろりと見やった。
あなたは後悔していらっしゃいますね!
然し口ではそう云わなかった。
「どうなさいましたの?」
彼は何とも答えないで、室の中をのっそり――と意識した歩調で歩き廻った。
「坊ちゃまが……。」
彼女が声を低めてるのが可笑しかった。眼を覚したって構うものかという気がした。わざとその枕頭を力足で歩いてやった。
順一は眼を覚して泣き出した。竜子は慌てて乳を含ました。
「むりに寝かしつけようとばかりしないで、少し抱いておやりよ。」
彼女は黙って、順一が眠るまで待った。それから彼の方へ向き直ってきた。
「私を憎んでいらっしゃるんでしょう。それなら、私出て行きます。」
「出て行けと誰が云った!」
理不尽な言葉を浴せかけてやったが、彼女は反抗して来なかった。下を向いたまま、髪の毛一筋揺がさないで、じっと坐っていた。
鎗で突いても突き通せない、じいわりとした而も深い根を張った、重々しい容積という感じだった。彼が其処を立去っても、もう見向きもしなかった。
彼は一人で苛ら立った。
夜遅く眼を覚すような時には、心が冷たく慴えきって、何となくあたりが見廻された。誰も居なかった。八畳の室ががらんとしていて、孤独な自分の姿をぽつりと浮び上らせた。彼はなお室の隅々まで見渡した。誰かが隠れているかも知れないという気がした。
その誰かが、無意識に探し求めている誰かが、実は秋子であることに気付くと、彼は堪らない気持になった。
秋子、秋子!
障子の硝子に映ってる彼の影を見て、二つになってはいや、と云った彼女のことが、はっきり思い出された。
彼は布団から匐い出して、半身で伸び上ってみた。後ろに電燈の光を受けた真黒な影が障子の腰硝子に薄すらと映っていた。瞳を凝らすと、それが次第に濃くなってきた。硝子のすぐ向うまで寄って来て、今にも室の中に飛び込んで来そうだった。
妙だぞ、と思うと同時に、彼はにじり寄ってる自分自身が恐ろしくなって、つと身を引いた。拭うがように凡てが消えて、雨戸の白い板が向うを限っていた。
かすかな……音とも云えない音が、何処からか響いてきた。彼は耳を傾けた。釘を打つ音、伏金の音、火葬窯の扉の音……でもなければ、分娩の唸り、瀕死の唸り、でもなかった。何だか滅入るような、焼かれた骨が灰になってゆくような……気配だった。自然と押入の方が顧みられた。ぞっと身震いがした。
ふらふらと立ち上って廊下に出た。黒い影が掠め過ぎた。彼は顔色を変えた。不吉だ! という気がした。向うの室にはいってみると、順一と竜子とが床を並べて寝ていた。秋子が分娩した時の通りの位置だった。
そういうことが幾度もあった。
竜子もいつしか、彼の様子に気付いていた。
「屹度あの骨壷《こつつぼ》が[#「骨壷《こつつぼ》が」は底本では「骨※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、58−下−13]《こつつぼ》が」]いけないんですよ。お葬式まで寺へお預けなさいましては?」
彼は取合わなかった。
「私もう嫌でございます。恐くって……戸を閉めにもはいられません。あんな所へ骨壷を[#「骨壷を」は底本では「骨※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、58−下−17]を」]お置きなすって、どうなさるおつもりなんでしょう?」
終りを独語の調子で呟いて、何かを見つめるような眼付をしていた。
しとしとと雨が降って、今にも雪になりそうな宵だった。
「じゃあどうしろと云うんだ?」
彼は突き放すつもりで、声の調子を尖らせた。彼女はひるまなかった。
「御自分でなさるのがお嫌でしたら、私が何処かへ片付けます。」
後は怒鳴りつけようとしたが、彼女の様子がいつになく真剣だった。まともにじっと彼の眼の中を覗き込んできた。
「俺がするよ。」と彼は叫んだ。
竜子の勝手にさせてなるものか!
彼は或る懸念に囚えられた。離れの室へ走って行って、押入を開いてみた。骨壷は[#「骨壷は」は底本では「骨※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、59−上−7]は」]ちゃんと元の位置に在った。彼はそれを両手に抱えて、室の中をうろついた。本箱が眼に止った。小さい方の箱の書物を投り出して、その後へ骨壷を[#「骨壷を」は底本では「骨※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、59−上−9]を」]しまった。がちりと錠を下した。その音が胸に響いた。じっと眺めてるまに思いついて、白紙を蓋の硝子一面に張りつけた。清らかな明るみへ出たという感じがした。嬉しかった。
彼は鍵を指先でくるくる廻しながら、竜子の所へ行った。
「おい骨壷を[#「骨壷を」は底本では「骨※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、59−上−14]を」]しまったよ。」
「え、何処に?」
「本箱の中に……。硝子に紙をはりつけたら、非常に清らかな感じがするようになった。」
彼女は薄い唇を尖らせ、眼の光を二三度ちらちらさした。それから上目がちに眼を見据えて唇を噛んだ。
「そんなに大切になさるのでしたら、毎晩抱いてお寝みになすった方がお宜しいでしょう。」
彼は赫《かっ》となった。が、心の底から別の感情が、彼女の言葉に暗示された忌わしい感情が、熱を持って浮び上ってきた。啜り泣きとも憤りともつかないのが、喉元にこみ上げてきた。
それが彼女にも反射した。彼女はいきなり片膝を立てて、彼の方へにじり寄ってきた。
「私の身体をどうして下さいます?」
敵意の籠った抱擁のうちに、彼は身を投げ出した。
今に見ろ、今に見ろ!
眼をつぶりながら、震えていた。
六
三月の半ばに、順造は竜子の妊娠を知った。
彼女は頭が重く痛いと云ってぶらぶらしていた。食慾が非常に減じた。総毛立った蒼い顔色をして、何をやり出してもすぐに放り出し、眉根をしかめて黙り込んでいた。朝は遅くまで寝て、晩は早く床にはいった。うっとり夢みるように考え込んでるかと思うと、急に眉根をしかめて苛ら立った。白粉の匂いを嫌がって、蒼脹れのした穢い素顔のままでいた。そして或る朝、食後間もなく、食べた物を皆吐いてしまった。順造は漠然とした不安を覚えた。腹膜炎! そういう考えが真先に浮んだ。医者に診《み》せてごらんと切《しき》りに勧めた。然し彼女はそれに従わなかった。診て貰っても無駄だと頑張った。二度目に食物を吐いた時、順造は叱りつけた。医者の家へ行かなければ、僕が医者を呼んで来てやる、とまで云った。
「病気ではございません。」と彼女は答えた。
「ではどうしたんだい。」
彼女は暫く考えていたが、低い声で云った。
「悪阻《つわり》のような気がします。」
「え、悪阻!」
順造は飛び上らんばかりに驚いた。
「本当かい?」
「ええ、屹度そうに違いありませんわ。」
眼を一つ所に定めて、心で胎内を見守ってる様子だった。
順造は初めの驚きが鎮まると、心がどしんと落着く所へ落着いた気がした。彼女から顔を見つめられると、冷かな調子で云った。
「じゃあ身体を大事にしなけりゃいけないよ。」
ふいに暗室の中に飛び込んで、暫くつっ立ってるうちに、闇黒に眼が馴れてきて、ぼんやり物の影が見えてくる、その心地に似ていた。
運命! とでも云えるものが、頭の上にじかに感ぜられた。過去の全景が、影絵のように浮出してきた。秋子の儚い運命が、茫と燐光を放っていた。順一の……。
星が光ってる!
あの時の感じが、胸の中に甦ってきた。それを如何に長く忘れていたことだろう!
順一はまるまる肥っていた。瞳の光が澄んでいて、目玉の動きの遅い所が、秋子によく似てるようだった。鼻筋が通って唇が心持ち
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