歪んでいた。笑う時左の頬に可愛い笑窪が出来た。ちょっちょっと舌を鳴らしてみせると、にっこり笑った。何かに見とれながら、うぐんうぐんと訳の分らない声を立てた。いつのまにか赤味が取れて真白な色になり、房々としたしなやかな黒い毛が、額に垂れて先を少し縮らしていた。円っこい凸額《おでこ》だった。
 何を考えてるのかしら?
 余りに頼り無い小ちゃな存在だったのが、いつしかしっかり根を下して、自分の運命を荷おうとしていた。その存在と運命とが――以前別々なものとなって順造の眼に映ったのが――一つに結び合されるのを見て、彼は突然云い知れぬ愛着を感じ出した。
 胸に抱き取って、いつまでも庭を歩いてやった。和やかな初春の外光が、その瞳にちらちら映っていた。まぶしそうな渋め顔をしているのが、たまらなく可愛かった。
 そういう彼の様子を、竜子は不思議そうに眺めた。
「どうしてそう急に可愛くおなりなすったのでしょうね?」
 その眼は皮肉な色に鋭く輝いていた。
 お前が妊娠したせいだ! と彼は心の中で叫んだ。理屈ではなかった。じかにそう感ぜられた。
 彼は出来るだけ順一の側についていた。他の座敷に居る時順一の泣声が聞えると、すぐ飛んで行った。なぜ泣かせるんだ、と竜子を叱った。順一が顔を渋めてると、おしっこだ、襁褓《おむつ》を取代えてやれ、と竜子へ云いつけた。一日置きには風呂を沸かさせて、自分で入れてやった。
 恐ろしい闘いが来そうな気がした。
 然し彼は、つとめて竜子へ滋養分を取らせた。毎日牛乳を二合は是非とも飲ませた。力のいる仕事は皆女中にやらせた。
 何のためか、彼は自分でも分らなかった。
 二人で差向っていると、彼は知らず識らず竜子の腹部に眼をつけていた。
「まだ大きくなりはしませんですよ。」
 彼女は笑った。がその笑いは、中途でぴたりと止んだ。
「なぜそんなにお腹ばかり気にしていらっしゃいますの。」
「お前は恐ろしくはないのか。」
「え? なにが?」
 何がだか、彼にもはっきりとは分らなかったが、大きく膨れ上った腹の幻が、それは妊娠の腹でも腹膜炎の腹でもなく、ただ怪しく張り切ってる太鼓腹が、頭の底に浮び上ってきた。
「大丈夫でございますよ。」
 竜子はややあって平然と答えた。そして太い臀を少し横坐りにどっしりと構えて、力一杯に押しても小揺ぎだにしそうになかった。
 勝手にするがいいや!
 一人で、何物かに無性にぶつかってゆきたい気持で、順造は家の中をあちらこちら歩き廻った。その歩みの拍子につれて、いろんな考えがひょいひょいと浮んできた。――俺は一体竜子をどうしようというのか、俺の子を腹に宿してる竜子を。結婚しようというのか、別れようというのか、このままの関係を続けてゆこうというのか。俺は竜子を愛してるのか。それとも憎んでるのか。……然し俺のうちには、何等のはっきりした意志も感情もない。凡てが腐爛しきった泥濘だ。その泥濘の中で、俺が本当に愛してるのは秋子一人だ。ああ秋子、秋子!
 亡き秋子に対して、竜子は一体何ものなのか。そして、秋子と俺との只一人の子の順一に対して、竜子の腹の中に宿ってるものは、一体何ものなのか。……いや何ものだろうと構やしない。今に、今に……。そうだ、腹がむくむくと脹れ上ってきて、セルロイドの人形の腹のように張りきって、叩いたらぽこんぽこんと音を立てて、どうにも始末におえなくなって……。
 ああ秋子! お前は……。
「どうなさいましたの?」
 薄い反り返った唇をぽかんと開いて、竜子は一心に彼の方を見つめていた。彼はそれをじっと見返してやった。
「真蒼なお顔をして……。」
 云いさして彼女は俄に口を噤んだ。目玉の表面にぎらぎらした輝きが浮んで、顔全体からすっと血の気が引いていった。五秒……七秒……石のような沈黙が続いた。と彼女はふいにはらはらと涙をこぼしながら、それを自分でも知らないらしく、彼を見つめたまま口走った。
「あなたは、私を憎んでいらっしゃるのでしょう。私を……私のお腹の子を憎んでいらっしゃるのでしょう。そして、今のうちに、その子をどうにかしてしまいたがっていらっしゃるのでしょう。」
「え、今のうちにお腹の子を……。」
「ええ、そうですわ。そうですわ。口に出して云えないものだから、いろんな様子で私に悟らせようとなすっていらっしゃるのです。私に骨の折れる仕事をさせなかったり、うまい物を食べさせたりなすってるのも、本当の気持からじゃなくって、みんな皮肉に私をいじめるおつもりなんです。そして表面《うわべ》だけやさしくしながら、心のうちでは恐ろしい事を、口に云えないような恐ろしいことを、一人でたくらんでは私にそれを押しつけようとなすってるのです。私がいくら馬鹿だからって、それくらいのことは分ります。でも私、いやです、いやです。そればっかりはどうしても……。」
 両袖で腹をかこって、彼女はもう本当に泣きじゃくりをしていた。
「何を云うんだ、お前は! そんなことを頭に浮べるのさえだって、恐ろしいとは思わないのか。」
 だが、俺はそんなことを考えたことが果してなかったのかしら? 今度ばかりでなしに、順一が生れる前だって……。
 瞬間に閃めいたその考えに、順造は自ら喫驚して飛び上った。じっとしていられなかった。離れの室に逃げ込んでゆくと、白紙を張って秋子の骨壺を隠した本箱が、妙に白々しく取澄して見えた。彼はほっと安堵した気持になると共に、呆けたように頭が茫としてしまった。室の真中に敷いてあった布団の上に、ごろりと長く寝そべった。
 静かな晩だった。変に物音一つ聞えなかった。長い間たった。室の入口から真白な円いものが覗き込んで、暫くしてそのまますーと消えていった。何だったろう、とそんなことを彼はぼんやり考えた。
 いつのまにかうとうとして、薄ら寒さにはっと我に返った時、眠りながら考えていたらしい一つのことが、彼の頭にこびりついていた。
 どんなことがあっても、順一だけは立派に護り育ててやろう!
 今のうちに腹の中の子をどうにかするとかしないとか、そんな問題らしかった。順造は怪しい心地で起き上った。もう夜中過ぎのしんとした静けさだった。その静けさに耳を澄してると、訳の分らぬ不吉な不安さが寄せてきた。彼は立上って向うの室を覗きにいった。
 廊下に足音を立てないようにして、それから注意して障子を開いて、頭だけ差出して眺めてみると、覆いのしてある電燈の薄暗い光の中に、ぱっとした派手な友禅模様のメリンスの布団に、竜子と順一とがぬくぬくと眠っていた。順造はそれを暫く眺めていたが、やがてまた足音をぬすんで自分の室に戻っていった。そしてじっと腕を組んで坐った。
 俺は一体どうしようというのか。何を求めていたのか。
 昔からのことが、順一が秋子の腹に宿ってからのことが、影絵のような静けさで、彼の頭に映ってきた。
 そしてその夜順造は、二度も三度も竜子と順一との寝顔を覗きに行った。肉の豊かな頬辺をぐったりと枕につけ、大きな束髪の後れ毛をねっとりと頸筋に絡まして、横向きに片腕を長く差伸してる竜子の懐に、順一はその腕を枕に、仰向きになって、両手を肩のあたりにかついで、無心に眠り続けていた。二人とも殆んど息をしてないかのように、安らかにぐっすり眠っていた。順造はそっと寄っていって、順一の円っこい凸額《おでこ》に一寸手をやってみた。ふうわりした温かさがあった。彼が手を引込めるとたんに、何を感じてか左の頬に軽く笑窪をよせて、口を少し動かしかけたが、そのまままた静かに眠ってしまった。死のように静かな、而も温い眠りだった。
 何という静かな眠りだろう! そして此処にも……。
 順造は悪夢からでも醒めたような心地になって、自分でも喫驚して、本箱の鍵を開いて、中から秋子の骨壺を取出して胸に抱いた。室全体が、心の中全体が、冷やりとしてしいんとなった。
 秋子よ、安らかに眠ってくれ! 順一も、竜子の腹の子も、皆安らかに眠ってくれ!
 戸の隙間から白々とした夜明の微光がさし初めた頃、順造はそっと雨戸をくって外に出た。露を含んだ爽かな夜明けだった。庭の木々に小さな芽が出かかっていた。片隅の枸杞《くこ》の枝に、小さな実が所々残っていて、赤く艶々と光っていた。あの朝は、順一が生れた時は、薄紫の花が咲いていたっけ。
 そうだ、皆安らかに眠ってくれ!
 まだ星が一つ二つ輝き残ってるらしい仄かな夜明けの光の中に、順造は怪しい心乱れがして、室の中に戻っていった。そして頭から布団を被って、眠れ眠れ! と幻にでも呼びかけるように、胸の底でしつっこく繰返しながら、いつしかうとうとと眠っていって、それからは昏々と眠り続けた。竜子が順一を抱いて彼の室を覗きに来て、次には彼を揺り起そうとしたが、彼は夢中にその手を払いのけて、精根つきた者のように、いつまでも眠り続けた。
 午後になって順造は眼を覚した。起き上るとすぐ順一の所へ駆けていった。縁側に坐ってぼんやり考え耽ってる竜子の膝から、いきなり順一を抱き取って、室の中をよいよいして歩いた。きょとんとした真黒な眼が彼の心に喰い込んできた。
「竜子、お前もいい子を産むんだぞ。」
 ぎくりとしたように肩を震わして、竜子は彼の方を見つめた。蒼白い顔をして、息をつめて、蝦蟇のようにどっしりとした容積だった。
「いい子を産むんだ!」
 独語の調子で繰返しておいて、順造はははは……と呆けた笑いを洩らした。眼から涙が出て来た。そして自分で自分が分らないぽかんとした気持になって、順一を抱きながら、あちらこちら歩き廻った。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1922(大正11)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「姙娠」と「妊娠」の混在は底本通りにしました。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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