喰い込んでいった。
 何を考えるともなくぼんやりして、室の中を片付けていると、戸棚の隅から、紙に包んだメリンスや羽二重の布が二三個出てきた。順一が生れて間もなく、親しい友から貰った祝着だった。貰ったままで忘れられてしまっていた。
 彼は初めて眺めるような心地で、順一の顔を見守った。長い頭がいつしか円くなり、頬から口のあたりへまとまりが出来、額の皺がなくなって、ちらつく光の後を眼で追うようになっていた。頬にふっくらと肉がついていて、絹のようにすべすべした皮膚だった。
 その顔を指先でつっつくと、すぐに口を持ってきて、あちらこちら探し廻った。きょとんとした顔付をしたり、妙な渋め顔をしたり、大きく口を開いて泣き立てたりした。小指の先をくわえさせると、生温《なまあったか》い粘り気のある唇でちゅっちゅっと吸った。しまいには焦れだした。
「お可愛そうですよ、そんなにからかいなすっては。」と竜子は云った。
 彼女は順一を抱き取って乳をやった。円く張った真白な乳房が、順一の頬と同じくすべすべした皮膚を、惜しげもなく曝していた。
 順造は喫驚して眼を見張った。すぐ自分の側に余りにまざまざと、彼女の存在が感ぜられた。秋子の死から葬式から其後の混雑の間に、順一を介して、彼女はいつのまにか彼と相接して立っていた。彼は適当の視距離を保って彼女を見ることが出来なかった。
 大きな澄んだ眼だった。瞳の輝きが目玉の表面に浮いて見え、同情と揶揄との間を一瞬に飛び越し得る眼付だった。鼻が太くがっしりして、薄い唇が少しく反り返っていた。柔かみのある下脹《しもぶく》れの頬に、いつも薄く白粉を塗って、大きな束髪に結っていた。若々しさのうちに何処か緊りのない爛熟した肉付で、甘酸っぱい匂い――匂いとも云えないほどの風味が、その全身に漂っていた。凡ての点で清楚だと感じのする秋子とは異って、鈍重なずっしりとした容積だった。
 或る大学生と恋してその子を孕みまでしたが、子供が生れると間もなく男に捨てられ、一人で子供を育てていたけれど、どうも先の見込がないので、厄介になってる家――遠い縁故――の主婦さんに勧められて、子供を他家《よそ》にくれてやり、自分は乳母奉公の決心をしたのだ、というようなことを彼女は語った。
「私奥様に代って、坊ちゃまを立派にお育て致しますわ。」と彼女は云った。
 そして実際、少しの手落もなく順一を守り育てながら、彼女は家事万端のことを取締ってくれた。日々の食事のことから、順造の身辺の世話までやいた。襯衣が少し汚れるとすぐに取代えさした。外出の時には新らしい足袋を揃えておいてくれた。外で傘を取違えてくると、仕様がないと小言を云った。
「ほんとに懶惰《ものぐさ》でいらっしゃいますね。お服装《みなり》にも少しは気をつけなさらなければいけませんよ。……ふさいでばかりいらっしゃらないで、気晴しにお出かけなさいましよ。……香奠のお返しのことも、そろそろお仕度をなさらなければなりませんでしょう。……炬燵のお布団が穢くなっていますから、新しくお作り致しましょうか。」
 というようなことを、反り気味の薄い唇で、彼女はてきぱきと云ってのけた。
 順造はそれらの世話のうちに包み込まれ、眼の前を塞いでる彼女の肉体を見守りながら、心では過ぎ去った影を追っていた。
 カチン、カチン……と五六回くり返して、トン、トン、トン……と急な調子になった。その時彼は、もっと大きな釘でしっかりと棺の蓋を打付けてほしいと思った。出来るならば、彼女の死骸を鉄の箱にでも納めてしまいたかった。――カァン、カァン、カァン、カァン……と何時までも同じ単調な響だった。それが急調子の読経の声の間から、絶え間なく湧き上ってきた。すぐ膝の前で力籠めて伏金《ふせがね》を叩いてる半白の僧侶が、鋭い響によく鼓膜を痛めないものだと、彼はその時不思議に思った。――ガチャリ、とただ一度の響だった。胸の中に鉄の錘を投げ込まれるような残忍な感じだった。その時彼は、顔の筋肉を引きつらして、閉め切った火葬の窯《かま》の鉄の扉を見つめた。
 その三つの音が、長く彼の耳に残っていた。……骨揚《こつあげ》に行って、白木の火箸の先で灰の中から、形のある遺骨を拾い出し、それを瀬戸の壷に[#「壷に」は底本では「※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、53−下−13]に」]つめ、秋晴れの爽かな外光の中を、何とも云えない悲壮な清浄な気持で帰ってきた、その同じ気持を、何時までも保っていたいと願っていた、その下から、三様の音がともすると響いてきた。夜遅くぼんやりしてると、耳の底にこびりついてる音に、我知らず聴き入ってることがあった。
 彼は堪らない心地になった。
 如何に秋子を愛していたことか、そして、如何に愛し方が足りなかったことか!
 そして彼の心に浮んでくるのは、結婚当時の彼女だった。膝の上に抱きしめ、掌の中にまるめ込みたいような、小柄な淋しい可愛いい彼女だった。小さく清楚にちまぢまとまとまってる彼女だった。可愛さの余りに小憎らしくなって、こづき廻した事もあったが……。
 遺骨は折を見て国許の墓地に埋めるまで、寺へ預けておくつもりだったが、四十九日が過ぎると、順造はそれを家に持って来て、押入の片隅を仏壇にしつらえ、其処へ丁寧に安置した。
「これが坊やのお母ちゃんだよ。」
 順一を抱いて来て、その前を往き来した。心持ち右と左とびっこの眼で、何処からかじっと見られてる心地がした。
 この児を見守ってるのだ!
 然し、順一に母親の務めをしてるのは竜子だった。彼女は殆んど本能的な愛で順一を庇護してるかと思われた。一寸順一が泣声を立ててもすぐに飛んで来た。おおいい児ちゃん、と云って頬ずりをしていた。順一が風邪の気味だと、慌てて医者へ俥を走らせた。帰って来て、しどけない坐り方をしながら、順一を胸に抱きしめた。
「よかったわね、何でもなくて。」
 大きく揚羽蝶を染め出した羽二重の帯に、派手な小紋金紗の羽織をつけていた。方々へ香奠返しをする折に、秋子の形見分《かたみわ》けとして貰ったのを、袖丈を縫い直した衣類だった。
 順造は妙な気持で彼女の姿を眺め初めた。
 順一が少し熱を出すと、彼女は用を悉く女中に任せて、その枕頭につきっきりでいた。
「自分の子供に逢いたくはないかい。」と順造は尋ねてみた。
「いいえ、もう他人《ひと》にやってしまったものですから。」
「それでも始終考え出すだろう。順一とどちらが可愛いい?」
「それはお坊ちゃまの方でございますわ。私お坊ちゃまを自分の児の……自分の児より幾倍可愛いいか分りません。乳を上げてるばかりでなく、何だか深い御縁があるような気がしまして……。」
 そういう彼女の気持が、彼にはよく了解出来なかった。じっとその顔を眺めてやった。
「順一は仕合せだ。」
 独語の調子で云い捨てた彼の言葉を、彼女はよそ事に聞き流して、ぼんやり室の隅を見つめていたが、ふとしみじみと云い出した。
「奥様はほんとにお仕合せでいらっしゃいました。旦那様のお腕に抱かれて息をお引取りなさいましたのですもの……。」
 順造は物につき当ったような気がして黙り込んだ。秋子の臨終のことがまざまざと記憶の中に蘇ってきた。その時彼女が生きていた世界のことを思うと、眼の前が真暗なものに閉された。
 秋子が生きていてさえくれたら!
 同じような静かな夜だった。虫の声が聞えない代りに、しいんと凍りつくような底冷《そこびえ》が感ぜられた。眼の前の女が、順一の枕頭で看護してる女が、秋子であってくれたら、とふと思ったのが、いやに気分にこびりついてきた。竜子の何だかもやもやとした過剰の肉体から、むず痒いような反感と嫌悪と、また同時に好奇心とを唆られて、彼は不機嫌に黙り込んでしまった。
 竜子も黙り込んでいた。寝ている順一の赤い顔が、静かに静かに皺を寄せて、それがしまいには無邪気な微笑に変った。
「あら、何が可笑しいんでしょう。」そして竜子は順造の方を顧みた。「夢をごらんなすってるのかしら……それとも胞衣《えな》に引かされてでしょうかしら。」
 順造はふいと立ち上った。
 夢をみてか、それとも胞衣に引かれてか……その微笑が、底知れぬ闇の中まで、秋子の死へまで、根を張っていた。
 彼は恐ろしい場所をでも遁れるような心地で、離れの自分の室へはいった。ことり[#「ことり」に傍点]との物音もしなかった。彼方の室に、竜子と順一とが居ることは分っていたが、分娩の唸りとも瀕死の唸りともつかない、暗い鈍い底力のある音が湧き上って、腹だけ脹れ上った骸骨の怪物が、影絵のように浮出してきた……。
 秋子ではない、秋子ではない!
 秋子は押入の中の骨壷に[#「骨壷に」は底本では「骨※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、55−上−9]に」]、清浄な灰となってはいっていた。
 彼は押入の襖を開いた。香を焚いた。諸行無常……というよりも寧ろ、凡て空《くう》なり、その香煙が静かに立ち昇った。白布の結え目を解き、箱を開き、壷の[#「壷の」は底本では「※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、55−上−12]の」]蓋を取ると、所々黝ずんだ仄白い遺骨が、八分めばかりはいっていた。
 秋子、秋子!
 身体中が冷たくなって、髪の毛穴がぞーっとした。真白な骨片を一枚取って、歯でがりがりとやった。塩辛い味がして口の中で融けて無くなった。手に残ってるのを、またがりがりとやった。唾液を飲み込むと、胸がむかついてきた。じっと押え止めてるまに鎮まった。しいんとなった。
 彼ははっとして飛び上った。室の入口から秋子の真白い顔が覗いていた。と思ったのは瞬間で、竜子の顔に変った。それが石のようになって、こちらを見つめていた。
「乳母《ばあ》や!」
 喫驚するほどの大きな声が出た。
「何をしていたんだ!」
 彼は飛びかかって、無我夢中で殴りつけた。彼女の身体がへなへなになって倒れたのを感じた。女中が駆けつけて来た。彼は腕を組んでぼんやりあたりを見廻した。横坐りに片手で身を支えながら震えてる竜子と、呆気に取られてつっ立ってる女中と、……廊下の隅が薄暗かった。
「散歩に行ってくる。」
 云い捨てて置いて、袖からつき込んだ左手でぐっと腹を押えながら、わざとゆっくり構え込んだ。金入を懐にし、煙草を袂に入れ、外套を着込み、帽子を被って、外に出た。
 寒い夜だった。西の空に傾いてる月の面を掠めて、白い雲が空低くちぎれ飛んでいた。
 彼は明るい大通の方へ歩いていった。風を捲き起して轟然と走り過ぎる電車の響と、何処までも続いてるレールの蒼白い輝きとが、夜更けの寒い街路に快かった。彼は真直ぐにそのレールに沿って歩み続けた。何もかも打忘れて大地の上に一人つっ立ってる気持だった。提灯をつけ大きな荷物を積んで通り過ぎた怪しい荷車が、その気持にぽつりと黒い影を落していった。
 下らないことにこだわる必要はない!
 それでも、寂しい町並に、一軒の閉め残った硝子器具店が、ぎらぎらした光りの乱射を投じてるのを見た時、彼はその中に石を投り込んでやりたくなった。石を拾うために屈もうとまでした。が、俄に馬鹿々々しくなった。彼はほっと大きく息をした。
 やがて歩き疲れると、眼に止った相当のカフェーへはいった。五六人の客が居た。その方へ背中を向けて、ウイスキーやカクテールの杯をちびりちびりと嘗めた。煖炉の火がいやにかっと熱くて、そのくせ身体は温まらなかった。彼は強いて杯の数を重ねた。腹も空いていた。料理を三四品食べた。
 電車が無くなった頃、彼はぼんやりした酔心地で家に帰って来た。寄せられる玄関の戸を押し開いたが、誰も出て来なかった。自分で締りをして、茶の間に通った。火鉢に鉄瓶の湯が沸いていて、茶道具が揃えてあった。茶をいれて飲んだ。
 家中がひっそりしていた。鼠の音もせず、人の気配もしなかった。彼は変な気持になった。女中部屋を覗いてみると、女中はぐっすり眠っていた。座敷の方を見ると……喫驚した。
 竜子が、順一の枕頭に、石のように固くなって端坐していた。
 順一の病気がひどいのかしら、
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