たい、と竜子が申し出た時、順造は怒鳴りつけるような調子で云った。
「君は帰ってくるんですか、来ないんですか。」
竜子は呆れたように彼の顔を見返した。
「はっきりしとかないと、僕は非常に困るんだから。」
「では、」と竜子は暫くして云った。「荷物だけ持ってすぐに帰って参ります。」
「ああそうし給い。俥で行ったらじきだろう。」
竜子が出て行った後で、ねんねこにくるまった順一を抱いて、離れの室の中を歩き廻ってるうちに、彼はふと先刻の竜子との応対を思い出して、我ながら可笑しくなった。大きな声で笑ってみたくなった。が次に、何とも云いようのない憂鬱に襲われた。
秋子も順一も自分自身も、どうとでもなるようになるがいい!
彼は畳の上にごろりと寝転んで、順一に腕枕をさして抱きながら、ぼんやり天井を眺めていた。暫くして順一がむずかると、機械的に立ち上って、室の中をよいよいして歩いた。喜びも悲しみもないただ澄み切った順一の眼が、この上もなく淋しく思われてきた。順一が眠るとそれを布団に寝かして、自分は畳の上に寝そべった。背筋や足先がぞくぞく寒かったが、身を動かすのも嫌だった。
竜子が約束通りに早く帰って来ても、また、秋子の気分が大変いいと看護婦に云われても、彼は不機嫌に黙り込んでいた。
然し、実際秋子は気分がはっきりしてきた。腹痛も非常に遠のき、痙攣も襲って来なかった。その晩遅くまで眼を開いていた。わりにしっかりした言葉で、看護婦と話をした。
順造は横の方に寝転んで、雑誌を披いて二三頁飛び読みをしたり、ぼんやり天井板の木目を見守ったりした。凡てが不思議な気がした。妊娠や分娩や病気や乳母や看護婦や、現在眼の前の病室の事物までが、夢の中のことのように感ぜられた。そしてそれが、永久に続く事柄のように思われた。静かな静かな夜だった。しいんとした中に虫の声がしていた。遠い昔の思い出が籠っていそうな夜だった。秋子の大きな腹ももう気にかからなかった。
ただあるがままでよかった。
けれど、翌朝、朝日の光が縁側に当ってる頃、秋子がかすかな微笑を浮べたのを見た時、また彼女が平気で鶏卵の黄味をすすったのを見た時、順造は思わず飛び上った。
勝利だ、勝利だ!
何とはなしにそういう気がした。
秋子ははっきり眼を見開いていた。精神が澄み切ってるらしかった。散らかってる床の間の上を片付けてくれと云った。敷布団が湿ってるから取代えてくれと云った――そのことは看護婦になだめられて諦めた。この次から薬にもっと単舎《シロップ》を入れて貰うように、医者に頼んでくれと云った。氷嚢の角が痛いと云った。今日は幾日かと尋ねた。
順一の泣声が聞えると、此処に連れて来てくれとせがんだ。竜子がそれを抱いてきた。秋子はじっと順一の顔を眺めた。それから眼を外らして、暫くすると、竜子にとも順一にともなく云った。
「あちらで遊んでいらっしゃい。」
けれども、二三時間たって、順一の声が聞えると、彼女はまた連れて来てくれと云った。
「あなたみてきて下さいよ。」と順造に云うこともあった。
順造は立ち上って、順一の方をみに行く風をしながら、茶の間に屈み込んだ。暫くぼんやりしてると、看護婦から呼ばれた。
「奥様がお呼びでございますよ。」
順造は秋子の側にやって来た。
「なに?」
「え?」と秋子の方から尋ねかけた。
それから一二分間して、秋子は独語のような調子で云い出した。
「いやね、乳母《ばあや》に任せとくのは。」
順一のことに違いなかった。
「だってお前が病気の間は仕方ないじゃないか。」と順造は云った。「病気がよくなりさえすれば、またどうにでもなるよ。」
「どうにでもなるって……生れてしまわなければ駄目じゃないの?」
どうも調子が変だった。順造は惘然と彼女の顔を見つめた。
「あなた、私の手を握ってて頂戴。それはひどくくるのよ。」
順造が手を差出すと、彼女は異常な力でそれを握りしめた。かと思うと、不意にその手を離して、室の隅を指し示した。
「どうしたんでしょう。あんな大きな塵《ごみ》があるわ。だんだん大きくなるようよ。」
その方を注意して見ると、一寸した糸屑が落ちていた。
それでも、彼女の様子は落着いていた。気分はと尋ねられると、大変いいと答えた。
「ねえ、私がよくなるまでいて頂戴。」と看護婦に云った。「みんな他処へ行ってしまって、私一人になって、それは心細かったわ。それとも、夢だったかしら?」
彼女の世界の混乱してることが、わきからもよく見て取られた。それが二日続いた。順造は心の慴えを禁じ得なかった。しっかりしていなければいけないと思った。
その二日目の午後に、坪井医学士は彼をわきへ呼んで云った。
「どうも仕方がありませんね。……いつどんなことになるか分らない状態ですから、もしお知らせなさる所がありましたら、今のうちに……。」
「そんなに悪いんでしょうか。」
「まださし迫ってどうということはありますまいが、何しろ、軽い脳症を起していますからね。……そして、脳と同じ位に心臓にも打撃を受けています。」
順造は黙って頭を下げた。
然しどうも、それとはっきり信じられなかった。精神が苦闘から脱して漸くうち勝ちかける頃に、興奮の余り多少混乱することは、常識から考えても肯定出来た。またそういう実例はいくらもあった。秋子の場合もそれに違いないように思われた。あんなに疲憊しつくしていたのが、俄に元気になったのだった。
彼は看護婦に相談してみた。
「左様でございますね、脈はいくらかお悪いようですけれど、食慾は増していらしたのですから……。」
然し結局の断定は得られなかった。
兎に角万一の用意はしておこう、と順造は決心した。
秋子が病気のことは、必要な所へは大抵知らしてあった。彼の国許の母と弟とには、わざわざ出て来て貰うにも及ばなかった。で彼は秋子の国許の父へだけ電報を打った。病が重いから叔父の家まで来いとした。叔父――東京に居る唯一の近い親戚――へは大体のことを速達郵便で知らした。縁遠い親戚が一つと秋子の親しい友人が四五あったが、それには別に通知の必要はないと考えた。
それだけの考慮と処置とを取るのに、彼は落着いてる自分の心を見出した。然し大急ぎでやらなければならなかった。秋子がしきりに彼を求めていた。
彼が一寸姿を見せないと、何処へ行ってたかと彼女は尋ねた。そしてじっと彼の顔を見つめた。落ち凹みながら眼玉だけ飛び出して見える、凄い眼付だった。底に曇りを帯びてうわべだけぎらぎら光ってる、不気味な眼の光だった。その眼がぐるりと回転して一つの所に据ると、誰か来たようだから見て来いと云い出した。女中が居るからいいと彼が答えても承知しなかった。彼が立ち上りかけると、すぐに戻ってきてくれと云った。
玄関には誰も来てはいなかった。
そういうことが何度もくり返された。彼はしまいに馬鹿々々しくなった。表を少し歩き廻って戻って来た。
「私、あなたをどんなに待ったか知れないわ。」と彼女は云いながら、彼をすぐ側に引寄せて、その耳に囁いた「お腹が急に軽くなったような気がするのよ、そっと坐ってみましょうか、内密《ないしょ》でね。」
そして彼女は起き上ろうとした。看護婦がそれを慌てて止めた。
「だってもうお腹は小さくなってるのに……。」
然し実際は、小さいどころではなかった。その日の診察の時には、今にも張り裂けそうに脹れ上って、皮膚がぴかぴか光っていた。鳩尾《みずおち》の所でくっきりと一線を劃して、それから上は肋骨が一枚々々浮出して見えていた。順造は見かねて眼を外らした。見舞に来ていた叔母がその場に居合せないのを、幸と思ったほどだった。
秋子はしきりに、身体の汚れを気にしだした。夜着の襟から手を出して、手先が穢いと云った。もう少し病気がよくなったら洗ってあげる、と看護婦に云われると、今度は両手を持ち寄って、爪の中の垢をほじくり初めた。何度も掌を返して、その裏表を長くあらためていた。額に垂れかかるほつれ毛を、非常に気にしてかき上げた。毛がかかっていないのに、何度も額を撫で廻すことがあった。氷嚢をのせる前には、必ず乾いた手拭で拭わせた。手指の爪の根元に白い部分が見えないからと云っては、病気がそんなにひどいのだろうかと怪しんだ。
「大丈夫でございますよ。」と看護婦が答えた。
「そうね。お腹も軽くなったようだから。」
それでも彼女はやはり爪を気にしていた。
明るみのない盲いたような不安が、次第に順造の心に喰い入っていった。何か不可抗的なものが、じりじりと迫ってきた。
或る晩、彼女はどうしても起き上ると云ってきかなかった。順造と看護婦とでいくら説き聞かせても、更に承知しなかった。云うままに任せるの外はなかった。布団を積んでそれによりかかって坐らせた。
彼女はほっと息をついた。
「私こんな嬉しいことはない。もう癒ったのも同じね。」
不思議そうにあたりを見廻してる彼女の様子に、順造は涙ぐんだ。
「屹度癒るよ。」
あたりがしいんとしていた。
「あなた!」
秋子は突然高い声を出した。眼を見開いて障子の方を見つめていた。彼はその視線を辿った。……と、ぞっと震え上った。
障子の腰硝子に人影が見えていた。眼玉ばかり大きな骸骨に似た顔が、ささくれ立った乱髪に縁取られていた。それが細長い首の上にのっかっていた。その下の方に、レントゲンで見るような骨ばかりの細い手が、何かを抱いてる格好に組み合されていた。抱かれてるのは大きく張り出した腹部だった。――その全体の姿が、じっと室の中を覗き込んでいた。
「おかしいわね。彼処《あすこ》にもあなたが坐ってる。」
「え!」
順造はまたぞっとした。瞬間に、硝子の人影は首を横にねじ向けた。
「いや! 二つになっちゃ。」
秋子が彼の方をじっと見ていた。
彼は漸く我に返った。彼が見たのは秋子の影で、秋子が見たのは彼の影だった。と分りはしたが、そのことが変に気にかかった。
彼は立ち上って、電気の位置を変えた。
「これでもう、二つになることはないよ。」
いやに真剣な気持になっていった。
「何だか薄暗いようじゃないの。」と彼女は云った。それから一寸間を置いた。「息苦しいから、戸を開けて下さらない?」
彼は彼女の手を執った。冷たい手だった。
「だってまだ夜じゃないか。」
「まだ夜は明けないの?」
彼はじっとして居れなかった。そんな筈はないけれど、夜明けかも知れないという気がした。そして立ち上りかけた。
その時、恐ろしい音が起った。ある限りの力を搾って、堰き止めるものと突き破るものとが、ごった返してる渦巻きのうなりが、ごーう、ごーう………と秋子の喉から洩れてきた。一瞬の余裕も得られなかった。彼は秋子の上体に飛びついて抱きしめた。彼女の両の拳が肩のあたりへ、徐々に上ってきた。眼が据ったままぐるぐると廻った。大きな叫び声がした。看護婦が注射器を取って駆け寄った。光った針が皮ばかりの胸へずぶりと差された。がその時には、消え入るように凡てがひっそりとなっていた。
僅かな瞬間のようでもあれば、長い時間のようでもあった。
順造は昏迷した眼付であたりを見廻した。いつのまにか、も一人の看護婦も竜子も女中も駆けつけていた。何やら合図をしてる手付が眼に止った。彼は静かに秋子を寝かした。
底知れぬ沈黙が落ちて来た。秋子は心臓痲痺のために、冷たくなっていた。
五
どんよりとした重い水が、或は渦を巻き或は淀み或は瀬をなして、小止《おや》みもない力で流れてゆく、そういう日々が続いた。順造は心の眼をつぶって、その流れのままに身を任せた。叔父と叔母とが万事を計らってくれた。
二七日《ふたなぬか》の頃から、順造は心身の疲憊に圧倒されながら、漸くはっきりと周囲を意識しだした。凡てが寂寥のうちに落着いてきて、彼の世界へまとまりだした。その世界が吹き曝しだった。歯が一本抜け落ちた時、いくら口をきっと結んでも、何処からか冷たい風が喉元へ吹き込んでくる、そういう淋しさが彼の胸へ
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