りしていた。熱が九度八分に上っていた。ただ待つより外はなかった。然し待った後で?
順造は不意に立ち上った。家の中を方々見廻った。何だかどの室をも綺麗に片付けて置かなければいけない気がした。それから俄に、秋子の死の場合を予想してることに気付いて、これではいけないと思った。考えを明るい方へと向けてそれに頼ろうとした。
病勢は殆んど不可抗力を以て進んでゆくがようだった。前ほど激しくはないが然し持続的な腹痛が、時を定めずに襲ってきた。秋子は眼をつぶり歯をくいしばって、手先を震わせながらそれを堪えた。額に汗がにじんで、眼が引吊ってると思われることもあった。そういう努力に、産後の衰弱した身体は益々疲憊していった。そして、それを補うものは何もなかった。食慾が一切なくなり、僅かな流動食を嚥下してもすぐに吐いた。薬でもなかなか落着かなかった。
翌日の十時頃彼女は、寝てるのが苦しいから坐ってみたいと云い出した。床の裾の方へ布団を積ませて、それによりかかって坐った。
彼女は暫く、障子の硝子から庭の方を見ていた。それからふと思い出したように、坊やを連れて来てくれと云った。順一の床は前晩から、離れの順造の室に移されていた。順造はそれを抱いて来た。
秋子は子供の顔をじっと覗き込んだ。
「この児は誰に似てるでしょう?」
顔の輪郭が母親に似て眼から額が父親に似てると、看護婦が答えた。
彼女は一寸微笑んで、それから後ろの布団によりかかった。
その時順造は喫驚した。彼女のその姿が、分娩前の姿とそっくりだった。眼の肉が落ち顔が蒼ざめてるのはまだいいとして、薄っぺらな胸で喘ぐような息をし、その下に、大きく脹らんだ腹がどっしり落着いていた。岩田帯の代りに温湿布がぐるぐる巻いてあった。其処を叩いたら、姙娠の時と同じ音がしそうだった。
順造は眼を外らした。
「もう寝たらどうだい。」
「そうね。」
彼女はおとなしく順造の言葉に従った。看護婦に手伝わして横になろうとする時、眼を見張り、頬を脹らませ、唇をきっと結んで、さし招くような手付をした。ぐ……ぐ……という音が喉から僅かに洩れて、その度にぴくりぴくりと肩を震わし、見張った眼と差出した手先とで、早く早くと云っていた。順造には何のことやら分らなかった。が咄嗟に看護婦が痰吐を差出すと、それにかじりついてげぶりと吐いた。腐爛した悪臭がぷんと立った。順一が生れた当時口ににじませたのと同じ色をした、どろどろの液体で、痰吐の半分以上もあった。秋子はそのまま、枕の上にがっくりとなった。
それからは、容態が目立って悪くなった。腹痛が襲ってくると、彼女はもう身体を引緊めるだけの力もないかのように、だらりと四肢を投げ出しながら、痛みに身を任せて、顔だけをくしゃくしゃに渋めた。下痢の回数が増し、嘔吐が日に一二回あった。何れもひどい悪臭の液体だった。腹が益々膨脹してきた。九度五分前後の熱が続き、脈が百十近くにのぼった。腹痛の合間には、嗜眠に近い状態でうとうとしていた。坪井医学士は、診察を済すとただ黙って帰って行った。看護婦にドイツ語で一二言囁くこともあった。
順造はもう何にも尋ねなかった。順一と秋子との間を往き来した。看護婦は二人共悪くなかった。一人は、てきぱきした言葉使いをする、眼付のしっかりした大柄な女だった。一人は、言葉に多少訛りのある、内気な静かな女だった。彼女等は秋子と順一とに交代についていた。順一の方にくると、順一が眠ってる間は一緒に眠った。
順造は、昼間は精がつきたように、じっとしてるとすぐにうつらうつらした。夜になると頭のしん[#「しん」に傍点]が張りきって眠れなかった。女中を早くから寝かして、看護婦と一緒に遅くまで、秋子の側についていた。
不吉な幻が浮んできた。
前年の夏、彼等は大きな硝子の容器に、金魚を二三匹飼ったことがあった。その一匹が死にかかった。美しい竜金《りゅうきん》だった。逆様になって、大きな腹を水面に浮べながら、いつまでもぱくぱくやっていた。洗面器に塩水を拵えて一昼夜ばかり入れて置くと、片泳ぎが出来るくらいに元気になった。それが一二日たつと、また仰向にひっくり返った。そういうことを二三度くり返した。大きく脹れ上った腹が固くなり、尾鰭の先が硬ばり、骨立った頭に眼玉が飛び出していた。思い出したように四五度慌しく鰓《えら》を動かしては、またじっと口を閉じた。死んだのかと思って指先でつっつくと、脹れた腹からつんと出てる鰭を動かしてちょろちょろと泳いだ、そういう状態が長く続いた。しまいには順造も秋子も、早く生きるか死ぬるかしてくれればいいと思うようになった。そう口に出してまで云った。長く苦しめるのが可哀そうだった。そして二人は、余りその方を見ないようにした。二週間ばかりたった或る朝、金魚はもう動かなくなっていた。水から取り出してみると、あれほど固かった大きな腹が、柔かくぶよぶよになっていた。内部の臓腑が腐ってるらしかった。
順造は怖じ恐れた眼付で、秋子の方を見やった。大きく脹らんでる腹が、布団越しにも感ぜられる気がした。日に僅かな水液しかはいらないで、而も多量の粘液を排出しながら、益々脹らんでくるその腹が、不気味さを通り越して奇怪だった。それをじっと仰向に抱えて、彼女は熱と悪臭と疼痛とのうちに、うとうとと眠っていた。蟀谷《こめかみ》のあたりがぴくぴく震え、眼窩が陥入って、眼玉が円く飛び出ていた。ただ頬から眉へかけた淋しみと、夜具の外へ投げ出してる手指とに、昔の面影が僅かに残っていた。節々が凹んだしなやかな細い指だった。順造はその指先をそっと握ってやった。
「あなた!」
声に驚いて顔を挙げると、彼女は眼をぱっちり開いていた。
なに? と見返した眼付で彼は尋ねた。
彼女は何とも云わなかった。目玉だけが作りつけのように飛出してるその眼で、じっと彼の顔を眺め、それから天井の四隅を眺め、そしてまた薄い眼瞼を閉じた。
眠ってるのか覚めてるのか、見当がつかなかった。夢現《ゆめうつつ》のように時々眉根をしかめた。
彼はいつまでも其処を去り得なかった。考えつめて――何をだかは分らないでただ考えつめて、頭のしん[#「しん」に傍点]が痛くなった。思い切って立ち上った。
忍び足で室を出て、忍び足で離れの室へはいった。看護婦の横に、順一が無心の寝顔を見せていた。順造はその枕頭に、また長い間坐り込んだ。同じく陰惨な唸り声ではあったが、出産の時の張りきった力の叫びとは違って、滅入るような静けさの冷たい唸り声が、秋子の室から響いてくるような気がした。その底から、彼女の大きな腹が眼の前に浮出してきた。
彼は恐ろしくなって、頭から布団を被った。
朝早く、女中が竈の下を焚きつけてる間に、彼は押入から硝子の金魚入を取出して、それを裏口に持ち出し、塵箱の中へ力一杯に投げ入れて砕いた。
爽かな清い朝だった。彼は何物かに祈らずにはいられない心地になった。
秋子が回復してくれさえしたら!
然しその日も、同じように混沌たる影のうちに包まれた。
四
順造は乳母《うば》のことを、頭の何処かにひっかかりながらも、いつとはなしに考えの外へ投り出しがちだった。所が或る日、桂庵の婆さんが不意に若い女を連れて来た。
乳母だ、と聞いた時、順造は一寸面喰った心地がした。どういう風に応対していいものか分らなかった。
兎も角も離れの室に通した。桂庵の婆さんと若い女とは、きちんと膝を合して坐った。婆さんは室の中の様子をじろじろ見廻した。若い女は顔を伏せていた。羽二重の帯に銘仙絣の着物羽織をつけ、髪を大きな束髪に結っていた。櫛を一本もさしていないのが、変に順造の眼に止った。
「この人が乳母に出たいと申すのでございますが……。」と桂庵の婆さんは、看護婦が遠慮して出て行った時云い出した。そして、奉公は初めてであること、身許も確かであること、乳は差乳《さしちち》で分量も多いこと、産後十ヶ月ではあるけれど、牛乳よりは子供のためにいいことなどを、ぱさぱさした而も丁寧な能弁で云い立てた。
「この児です。」と彼はぶっきら棒に、室の隅に眠ってる順一を指し示して云った。母親が産後の腹膜で悩んでるので、是非面倒をみて貰いたいと、頭から押被せるような調子で頼んだ。
婆さんは座を立って、廊下へ女を呼び出し、暫く何やら囁いていた。それから順造の前に来て、給金を二十円ほしい事と、二三日は目見《めみえ》のつもりでいてほしいこととを断った。
婆さんが帰った後で、女は不器用なお辞儀をして云った。
「よろしくお願い致します。」
口先から出る声で語尾が高くはっきりしていた。入江|竜子《たつこ》という名だった。大柄な立派な体格で、眼が大きくくるりとしてることだけを、順造は見て取った。
彼は秋子の所へ行って、乳母が来たことを知らせた。彼女は初め腑に落ちないらしかった。それから、遠くを見つめるような眼付をして、漸く首肯いた。
「連れて来ようか。」
「ええ。」
竜子は室の隅に坐って、何やら考え込んでいた。それを順造は廊下の外から呼び出した。
彼女は病室にはいって、程よい辺へ坐り、低く頭を下げて云った。
「不束者《ふつつかもの》でございますけれど……。」
その挨拶を順造は、自分に対する先刻の挨拶よりは、遙かに立派であると思った。
「お頼みしますよ。」と秋子は云っていた。「私はこんなですけれど、あなたが坊やの面倒を見て下されば、ほんとに安心します。」
順造は席を立って、茶の間の方へ行き、次に庭へ出た。何だか気持が落着かなかった。看護婦が来た時とは全く別な感じ――家の中に女性が一人殖えたという感じが、妙に気にかかった。
然しその感じは、やがて何処かへ飛び去ってしまった。秋子の容態が次第に険悪になっていった。
熱が九度以下にさがって、脈搏が百十五にも及んだ。始終嘔気があって、僅かな流動食も喉に通り難かった。そのくせ、いつも喉が渇いていて、盛んに番茶の熱いのをほしがった。煮立って間もない熱いやつを、平気で飲み下した。腹痛が長く続いて、泣くような唸り声を立てた。痛みが去ると、ぐったりしながらも、手足がだるくて堪らないと訴えた。前腕と足の腓腸部《ふくらつばみ》とを、始終さすってやらなければならなかった。そしては昼となく夜となく、頭と心臓部とに氷嚢をあて、腹部に温湿布をし、足先に湯たんぽを入れて、うとうとしていた。ともすると、膝から下がすぐに冷たくなった。
どうにも仕方のない状態だった。親戚や親しい知人の見舞客があっても、彼女は別に嬉しそうな顔もしなかった。客が帰ると、僅かな言葉しか交さなかったのに、非常に疲れを覚えてるらしかった。
もし秋子が死んだら?
そういう場合の予想が、いつしか順造の頭に巣くってきた。彼はそれに自ら気付いて不安になった。さりとて、彼女をそのまま長く苦しめるのは堪らないことだった。が回復の望みは更に少なかった。腹痛に唸りながら歯をくいしばってる彼女の側に、彼は拳を握りしめた両腕を組みながら、その大きな腹をじっと睥みつけた。切り開いて中の何かを掴み出したら、というような残忍な考えまで起った。
彼女は唸り声をはたと止め、歯をぎりぎり喰いしばって、異常な力の籠った両手を、ぐっと肩の方へ持って来た。見開いた眼が据っていた。痙攣を起したのだった。
腹痛を我慢してるのか痙攣を起してるのか、見極めのつかないこともよくあった。
「もう駄目でしょうか。」と順造は坪井医学士に尋ねた。
「今の所はまだ大丈夫のようですが、然しあの通りの状態ですからね……。」
医学士は多くを語らなかった。然しその様子は、殆んど望みのないことを語っていた。
もはや時期の問題だ!
然しその底から、絶望的な反抗の気勢が、順造の胸に時々湧き立った。俺がついてる間は死なせない、そう心に誓った。そして彼は出来るだけ病室から去らなかった。少しでも彼女の側を離れると、云い知れぬ不安に駆られた。夜もその室に寝ることとした。
宿に行って荷物を取って来たい、そして一晩泊ってき
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