て来ても、また、秋子の気分が大変いいと看護婦に云われても、彼は不機嫌に黙り込んでいた。
 然し、実際秋子は気分がはっきりしてきた。腹痛も非常に遠のき、痙攣も襲って来なかった。その晩遅くまで眼を開いていた。わりにしっかりした言葉で、看護婦と話をした。
 順造は横の方に寝転んで、雑誌を披いて二三頁飛び読みをしたり、ぼんやり天井板の木目を見守ったりした。凡てが不思議な気がした。妊娠や分娩や病気や乳母や看護婦や、現在眼の前の病室の事物までが、夢の中のことのように感ぜられた。そしてそれが、永久に続く事柄のように思われた。静かな静かな夜だった。しいんとした中に虫の声がしていた。遠い昔の思い出が籠っていそうな夜だった。秋子の大きな腹ももう気にかからなかった。
 ただあるがままでよかった。
 けれど、翌朝、朝日の光が縁側に当ってる頃、秋子がかすかな微笑を浮べたのを見た時、また彼女が平気で鶏卵の黄味をすすったのを見た時、順造は思わず飛び上った。
 勝利だ、勝利だ!
 何とはなしにそういう気がした。
 秋子ははっきり眼を見開いていた。精神が澄み切ってるらしかった。散らかってる床の間の上を片付けてくれと云っ
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