として、彼女は縋るように微笑みかけてきた。順造はその腹部から眼を外らして、彼女の手を握りしめてやった。
「しっかりおしよ。お前さえしっかりしていてくれれば……。」
 ……他のことはどうでもいい、という言葉が喉につかえた。果して他のことはどうでもいいかどうか、彼は我ながら分らなかった。大きな力が上から押被さってきて、胸がわくわくしていた。
 松の小枝の影が障子の棧を二つ進んで、も一つ他の枝影が出て来た頃、産婆が助手を連れてやって来た。肥った円顔の上に小さな束髪をつけ、大きな黒革の鞄を手にしてる様子が、変に道化じみていた。然しその言葉はしっかりしていた。
「まだ暫く間がございますよ。夜中過ぎか明朝になるかも知れません。私がついていますから、御安心なさいませ。案ずるより産むが易いって、全くでございますよ。」
 けれど、電灯がともる頃になると、陣痛は可なり頻繁にまた激しくなってきた。順造は大急ぎで食事を済して、秋子の室を一寸覗いた。彼女は頭をぐったり枕に押しあてて、涙ぐんだ眼を異様に輝かしていた。彼はその眼から、自分と自分を引きもぎるようにして、鈎の手の廊下で半ば離室《はなれ》になってる自分の
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