た。敷布団が湿ってるから取代えてくれと云った――そのことは看護婦になだめられて諦めた。この次から薬にもっと単舎《シロップ》を入れて貰うように、医者に頼んでくれと云った。氷嚢の角が痛いと云った。今日は幾日かと尋ねた。
順一の泣声が聞えると、此処に連れて来てくれとせがんだ。竜子がそれを抱いてきた。秋子はじっと順一の顔を眺めた。それから眼を外らして、暫くすると、竜子にとも順一にともなく云った。
「あちらで遊んでいらっしゃい。」
けれども、二三時間たって、順一の声が聞えると、彼女はまた連れて来てくれと云った。
「あなたみてきて下さいよ。」と順造に云うこともあった。
順造は立ち上って、順一の方をみに行く風をしながら、茶の間に屈み込んだ。暫くぼんやりしてると、看護婦から呼ばれた。
「奥様がお呼びでございますよ。」
順造は秋子の側にやって来た。
「なに?」
「え?」と秋子の方から尋ねかけた。
それから一二分間して、秋子は独語のような調子で云い出した。
「いやね、乳母《ばあや》に任せとくのは。」
順一のことに違いなかった。
「だってお前が病気の間は仕方ないじゃないか。」と順造は云った。「病気がよくなりさえすれば、またどうにでもなるよ。」
「どうにでもなるって……生れてしまわなければ駄目じゃないの?」
どうも調子が変だった。順造は惘然と彼女の顔を見つめた。
「あなた、私の手を握ってて頂戴。それはひどくくるのよ。」
順造が手を差出すと、彼女は異常な力でそれを握りしめた。かと思うと、不意にその手を離して、室の隅を指し示した。
「どうしたんでしょう。あんな大きな塵《ごみ》があるわ。だんだん大きくなるようよ。」
その方を注意して見ると、一寸した糸屑が落ちていた。
それでも、彼女の様子は落着いていた。気分はと尋ねられると、大変いいと答えた。
「ねえ、私がよくなるまでいて頂戴。」と看護婦に云った。「みんな他処へ行ってしまって、私一人になって、それは心細かったわ。それとも、夢だったかしら?」
彼女の世界の混乱してることが、わきからもよく見て取られた。それが二日続いた。順造は心の慴えを禁じ得なかった。しっかりしていなければいけないと思った。
その二日目の午後に、坪井医学士は彼をわきへ呼んで云った。
「どうも仕方がありませんね。……いつどんなことになるか分らない状態ですから、もしお知らせなさる所がありましたら、今のうちに……。」
「そんなに悪いんでしょうか。」
「まださし迫ってどうということはありますまいが、何しろ、軽い脳症を起していますからね。……そして、脳と同じ位に心臓にも打撃を受けています。」
順造は黙って頭を下げた。
然しどうも、それとはっきり信じられなかった。精神が苦闘から脱して漸くうち勝ちかける頃に、興奮の余り多少混乱することは、常識から考えても肯定出来た。またそういう実例はいくらもあった。秋子の場合もそれに違いないように思われた。あんなに疲憊しつくしていたのが、俄に元気になったのだった。
彼は看護婦に相談してみた。
「左様でございますね、脈はいくらかお悪いようですけれど、食慾は増していらしたのですから……。」
然し結局の断定は得られなかった。
兎に角万一の用意はしておこう、と順造は決心した。
秋子が病気のことは、必要な所へは大抵知らしてあった。彼の国許の母と弟とには、わざわざ出て来て貰うにも及ばなかった。で彼は秋子の国許の父へだけ電報を打った。病が重いから叔父の家まで来いとした。叔父――東京に居る唯一の近い親戚――へは大体のことを速達郵便で知らした。縁遠い親戚が一つと秋子の親しい友人が四五あったが、それには別に通知の必要はないと考えた。
それだけの考慮と処置とを取るのに、彼は落着いてる自分の心を見出した。然し大急ぎでやらなければならなかった。秋子がしきりに彼を求めていた。
彼が一寸姿を見せないと、何処へ行ってたかと彼女は尋ねた。そしてじっと彼の顔を見つめた。落ち凹みながら眼玉だけ飛び出して見える、凄い眼付だった。底に曇りを帯びてうわべだけぎらぎら光ってる、不気味な眼の光だった。その眼がぐるりと回転して一つの所に据ると、誰か来たようだから見て来いと云い出した。女中が居るからいいと彼が答えても承知しなかった。彼が立ち上りかけると、すぐに戻ってきてくれと云った。
玄関には誰も来てはいなかった。
そういうことが何度もくり返された。彼はしまいに馬鹿々々しくなった。表を少し歩き廻って戻って来た。
「私、あなたをどんなに待ったか知れないわ。」と彼女は云いながら、彼をすぐ側に引寄せて、その耳に囁いた「お腹が急に軽くなったような気がするのよ、そっと坐ってみましょうか、内密《ないしょ》でね。」
そして彼女は起き上ろうとした
前へ
次へ
全23ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング