たという感じが、妙に気にかかった。
然しその感じは、やがて何処かへ飛び去ってしまった。秋子の容態が次第に険悪になっていった。
熱が九度以下にさがって、脈搏が百十五にも及んだ。始終嘔気があって、僅かな流動食も喉に通り難かった。そのくせ、いつも喉が渇いていて、盛んに番茶の熱いのをほしがった。煮立って間もない熱いやつを、平気で飲み下した。腹痛が長く続いて、泣くような唸り声を立てた。痛みが去ると、ぐったりしながらも、手足がだるくて堪らないと訴えた。前腕と足の腓腸部《ふくらつばみ》とを、始終さすってやらなければならなかった。そしては昼となく夜となく、頭と心臓部とに氷嚢をあて、腹部に温湿布をし、足先に湯たんぽを入れて、うとうとしていた。ともすると、膝から下がすぐに冷たくなった。
どうにも仕方のない状態だった。親戚や親しい知人の見舞客があっても、彼女は別に嬉しそうな顔もしなかった。客が帰ると、僅かな言葉しか交さなかったのに、非常に疲れを覚えてるらしかった。
もし秋子が死んだら?
そういう場合の予想が、いつしか順造の頭に巣くってきた。彼はそれに自ら気付いて不安になった。さりとて、彼女をそのまま長く苦しめるのは堪らないことだった。が回復の望みは更に少なかった。腹痛に唸りながら歯をくいしばってる彼女の側に、彼は拳を握りしめた両腕を組みながら、その大きな腹をじっと睥みつけた。切り開いて中の何かを掴み出したら、というような残忍な考えまで起った。
彼女は唸り声をはたと止め、歯をぎりぎり喰いしばって、異常な力の籠った両手を、ぐっと肩の方へ持って来た。見開いた眼が据っていた。痙攣を起したのだった。
腹痛を我慢してるのか痙攣を起してるのか、見極めのつかないこともよくあった。
「もう駄目でしょうか。」と順造は坪井医学士に尋ねた。
「今の所はまだ大丈夫のようですが、然しあの通りの状態ですからね……。」
医学士は多くを語らなかった。然しその様子は、殆んど望みのないことを語っていた。
もはや時期の問題だ!
然しその底から、絶望的な反抗の気勢が、順造の胸に時々湧き立った。俺がついてる間は死なせない、そう心に誓った。そして彼は出来るだけ病室から去らなかった。少しでも彼女の側を離れると、云い知れぬ不安に駆られた。夜もその室に寝ることとした。
宿に行って荷物を取って来たい、そして一晩泊ってきたい、と竜子が申し出た時、順造は怒鳴りつけるような調子で云った。
「君は帰ってくるんですか、来ないんですか。」
竜子は呆れたように彼の顔を見返した。
「はっきりしとかないと、僕は非常に困るんだから。」
「では、」と竜子は暫くして云った。「荷物だけ持ってすぐに帰って参ります。」
「ああそうし給い。俥で行ったらじきだろう。」
竜子が出て行った後で、ねんねこにくるまった順一を抱いて、離れの室の中を歩き廻ってるうちに、彼はふと先刻の竜子との応対を思い出して、我ながら可笑しくなった。大きな声で笑ってみたくなった。が次に、何とも云いようのない憂鬱に襲われた。
秋子も順一も自分自身も、どうとでもなるようになるがいい!
彼は畳の上にごろりと寝転んで、順一に腕枕をさして抱きながら、ぼんやり天井を眺めていた。暫くして順一がむずかると、機械的に立ち上って、室の中をよいよいして歩いた。喜びも悲しみもないただ澄み切った順一の眼が、この上もなく淋しく思われてきた。順一が眠るとそれを布団に寝かして、自分は畳の上に寝そべった。背筋や足先がぞくぞく寒かったが、身を動かすのも嫌だった。
竜子が約束通りに早く帰って来ても、また、秋子の気分が大変いいと看護婦に云われても、彼は不機嫌に黙り込んでいた。
然し、実際秋子は気分がはっきりしてきた。腹痛も非常に遠のき、痙攣も襲って来なかった。その晩遅くまで眼を開いていた。わりにしっかりした言葉で、看護婦と話をした。
順造は横の方に寝転んで、雑誌を披いて二三頁飛び読みをしたり、ぼんやり天井板の木目を見守ったりした。凡てが不思議な気がした。妊娠や分娩や病気や乳母や看護婦や、現在眼の前の病室の事物までが、夢の中のことのように感ぜられた。そしてそれが、永久に続く事柄のように思われた。静かな静かな夜だった。しいんとした中に虫の声がしていた。遠い昔の思い出が籠っていそうな夜だった。秋子の大きな腹ももう気にかからなかった。
ただあるがままでよかった。
けれど、翌朝、朝日の光が縁側に当ってる頃、秋子がかすかな微笑を浮べたのを見た時、また彼女が平気で鶏卵の黄味をすすったのを見た時、順造は思わず飛び上った。
勝利だ、勝利だ!
何とはなしにそういう気がした。
秋子ははっきり眼を見開いていた。精神が澄み切ってるらしかった。散らかってる床の間の上を片付けてくれと云っ
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