なくなっていた。水から取り出してみると、あれほど固かった大きな腹が、柔かくぶよぶよになっていた。内部の臓腑が腐ってるらしかった。
順造は怖じ恐れた眼付で、秋子の方を見やった。大きく脹らんでる腹が、布団越しにも感ぜられる気がした。日に僅かな水液しかはいらないで、而も多量の粘液を排出しながら、益々脹らんでくるその腹が、不気味さを通り越して奇怪だった。それをじっと仰向に抱えて、彼女は熱と悪臭と疼痛とのうちに、うとうとと眠っていた。蟀谷《こめかみ》のあたりがぴくぴく震え、眼窩が陥入って、眼玉が円く飛び出ていた。ただ頬から眉へかけた淋しみと、夜具の外へ投げ出してる手指とに、昔の面影が僅かに残っていた。節々が凹んだしなやかな細い指だった。順造はその指先をそっと握ってやった。
「あなた!」
声に驚いて顔を挙げると、彼女は眼をぱっちり開いていた。
なに? と見返した眼付で彼は尋ねた。
彼女は何とも云わなかった。目玉だけが作りつけのように飛出してるその眼で、じっと彼の顔を眺め、それから天井の四隅を眺め、そしてまた薄い眼瞼を閉じた。
眠ってるのか覚めてるのか、見当がつかなかった。夢現《ゆめうつつ》のように時々眉根をしかめた。
彼はいつまでも其処を去り得なかった。考えつめて――何をだかは分らないでただ考えつめて、頭のしん[#「しん」に傍点]が痛くなった。思い切って立ち上った。
忍び足で室を出て、忍び足で離れの室へはいった。看護婦の横に、順一が無心の寝顔を見せていた。順造はその枕頭に、また長い間坐り込んだ。同じく陰惨な唸り声ではあったが、出産の時の張りきった力の叫びとは違って、滅入るような静けさの冷たい唸り声が、秋子の室から響いてくるような気がした。その底から、彼女の大きな腹が眼の前に浮出してきた。
彼は恐ろしくなって、頭から布団を被った。
朝早く、女中が竈の下を焚きつけてる間に、彼は押入から硝子の金魚入を取出して、それを裏口に持ち出し、塵箱の中へ力一杯に投げ入れて砕いた。
爽かな清い朝だった。彼は何物かに祈らずにはいられない心地になった。
秋子が回復してくれさえしたら!
然しその日も、同じように混沌たる影のうちに包まれた。
四
順造は乳母《うば》のことを、頭の何処かにひっかかりながらも、いつとはなしに考えの外へ投り出しがちだった。所が或る日、桂庵の婆さんが不意に若い女を連れて来た。
乳母だ、と聞いた時、順造は一寸面喰った心地がした。どういう風に応対していいものか分らなかった。
兎も角も離れの室に通した。桂庵の婆さんと若い女とは、きちんと膝を合して坐った。婆さんは室の中の様子をじろじろ見廻した。若い女は顔を伏せていた。羽二重の帯に銘仙絣の着物羽織をつけ、髪を大きな束髪に結っていた。櫛を一本もさしていないのが、変に順造の眼に止った。
「この人が乳母に出たいと申すのでございますが……。」と桂庵の婆さんは、看護婦が遠慮して出て行った時云い出した。そして、奉公は初めてであること、身許も確かであること、乳は差乳《さしちち》で分量も多いこと、産後十ヶ月ではあるけれど、牛乳よりは子供のためにいいことなどを、ぱさぱさした而も丁寧な能弁で云い立てた。
「この児です。」と彼はぶっきら棒に、室の隅に眠ってる順一を指し示して云った。母親が産後の腹膜で悩んでるので、是非面倒をみて貰いたいと、頭から押被せるような調子で頼んだ。
婆さんは座を立って、廊下へ女を呼び出し、暫く何やら囁いていた。それから順造の前に来て、給金を二十円ほしい事と、二三日は目見《めみえ》のつもりでいてほしいこととを断った。
婆さんが帰った後で、女は不器用なお辞儀をして云った。
「よろしくお願い致します。」
口先から出る声で語尾が高くはっきりしていた。入江|竜子《たつこ》という名だった。大柄な立派な体格で、眼が大きくくるりとしてることだけを、順造は見て取った。
彼は秋子の所へ行って、乳母が来たことを知らせた。彼女は初め腑に落ちないらしかった。それから、遠くを見つめるような眼付をして、漸く首肯いた。
「連れて来ようか。」
「ええ。」
竜子は室の隅に坐って、何やら考え込んでいた。それを順造は廊下の外から呼び出した。
彼女は病室にはいって、程よい辺へ坐り、低く頭を下げて云った。
「不束者《ふつつかもの》でございますけれど……。」
その挨拶を順造は、自分に対する先刻の挨拶よりは、遙かに立派であると思った。
「お頼みしますよ。」と秋子は云っていた。「私はこんなですけれど、あなたが坊やの面倒を見て下されば、ほんとに安心します。」
順造は席を立って、茶の間の方へ行き、次に庭へ出た。何だか気持が落着かなかった。看護婦が来た時とは全く別な感じ――家の中に女性が一人殖え
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