。看護婦がそれを慌てて止めた。
「だってもうお腹は小さくなってるのに……。」
 然し実際は、小さいどころではなかった。その日の診察の時には、今にも張り裂けそうに脹れ上って、皮膚がぴかぴか光っていた。鳩尾《みずおち》の所でくっきりと一線を劃して、それから上は肋骨が一枚々々浮出して見えていた。順造は見かねて眼を外らした。見舞に来ていた叔母がその場に居合せないのを、幸と思ったほどだった。
 秋子はしきりに、身体の汚れを気にしだした。夜着の襟から手を出して、手先が穢いと云った。もう少し病気がよくなったら洗ってあげる、と看護婦に云われると、今度は両手を持ち寄って、爪の中の垢をほじくり初めた。何度も掌を返して、その裏表を長くあらためていた。額に垂れかかるほつれ毛を、非常に気にしてかき上げた。毛がかかっていないのに、何度も額を撫で廻すことがあった。氷嚢をのせる前には、必ず乾いた手拭で拭わせた。手指の爪の根元に白い部分が見えないからと云っては、病気がそんなにひどいのだろうかと怪しんだ。
「大丈夫でございますよ。」と看護婦が答えた。
「そうね。お腹も軽くなったようだから。」
 それでも彼女はやはり爪を気にしていた。
 明るみのない盲いたような不安が、次第に順造の心に喰い入っていった。何か不可抗的なものが、じりじりと迫ってきた。
 或る晩、彼女はどうしても起き上ると云ってきかなかった。順造と看護婦とでいくら説き聞かせても、更に承知しなかった。云うままに任せるの外はなかった。布団を積んでそれによりかかって坐らせた。
 彼女はほっと息をついた。
「私こんな嬉しいことはない。もう癒ったのも同じね。」
 不思議そうにあたりを見廻してる彼女の様子に、順造は涙ぐんだ。
「屹度癒るよ。」
 あたりがしいんとしていた。
「あなた!」
 秋子は突然高い声を出した。眼を見開いて障子の方を見つめていた。彼はその視線を辿った。……と、ぞっと震え上った。
 障子の腰硝子に人影が見えていた。眼玉ばかり大きな骸骨に似た顔が、ささくれ立った乱髪に縁取られていた。それが細長い首の上にのっかっていた。その下の方に、レントゲンで見るような骨ばかりの細い手が、何かを抱いてる格好に組み合されていた。抱かれてるのは大きく張り出した腹部だった。――その全体の姿が、じっと室の中を覗き込んでいた。
「おかしいわね。彼処《あすこ》にもあなたが坐ってる。」
「え!」
 順造はまたぞっとした。瞬間に、硝子の人影は首を横にねじ向けた。
「いや! 二つになっちゃ。」
 秋子が彼の方をじっと見ていた。
 彼は漸く我に返った。彼が見たのは秋子の影で、秋子が見たのは彼の影だった。と分りはしたが、そのことが変に気にかかった。
 彼は立ち上って、電気の位置を変えた。
「これでもう、二つになることはないよ。」
 いやに真剣な気持になっていった。
「何だか薄暗いようじゃないの。」と彼女は云った。それから一寸間を置いた。「息苦しいから、戸を開けて下さらない?」
 彼は彼女の手を執った。冷たい手だった。
「だってまだ夜じゃないか。」
「まだ夜は明けないの?」
 彼はじっとして居れなかった。そんな筈はないけれど、夜明けかも知れないという気がした。そして立ち上りかけた。
 その時、恐ろしい音が起った。ある限りの力を搾って、堰き止めるものと突き破るものとが、ごった返してる渦巻きのうなりが、ごーう、ごーう………と秋子の喉から洩れてきた。一瞬の余裕も得られなかった。彼は秋子の上体に飛びついて抱きしめた。彼女の両の拳が肩のあたりへ、徐々に上ってきた。眼が据ったままぐるぐると廻った。大きな叫び声がした。看護婦が注射器を取って駆け寄った。光った針が皮ばかりの胸へずぶりと差された。がその時には、消え入るように凡てがひっそりとなっていた。
 僅かな瞬間のようでもあれば、長い時間のようでもあった。
 順造は昏迷した眼付であたりを見廻した。いつのまにか、も一人の看護婦も竜子も女中も駆けつけていた。何やら合図をしてる手付が眼に止った。彼は静かに秋子を寝かした。
 底知れぬ沈黙が落ちて来た。秋子は心臓痲痺のために、冷たくなっていた。

     五

 どんよりとした重い水が、或は渦を巻き或は淀み或は瀬をなして、小止《おや》みもない力で流れてゆく、そういう日々が続いた。順造は心の眼をつぶって、その流れのままに身を任せた。叔父と叔母とが万事を計らってくれた。
 二七日《ふたなぬか》の頃から、順造は心身の疲憊に圧倒されながら、漸くはっきりと周囲を意識しだした。凡てが寂寥のうちに落着いてきて、彼の世界へまとまりだした。その世界が吹き曝しだった。歯が一本抜け落ちた時、いくら口をきっと結んでも、何処からか冷たい風が喉元へ吹き込んでくる、そういう淋しさが彼の胸へ
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