という字を取って順一としてみた。するとそれが非常によくなった。順という字も一という字も感じがよかった。岡部順一と並べてみても悪くなかった。それにきめた。
 七夜《ひちや》に奉書《ほうしょ》の紙に名前を書いて命名が済んだ。産婆からいい名前だとほめられたのが、お世辞にせよ彼には嬉しかった。麻で結えられた素焼の胞衣壷《えなつぼ》と[#「胞衣壷《えなつぼ》と」は底本では「胞衣※[#「壼」の「亞」に代えて「亜」、41−上−3]《えなつぼ》と」]、油紙の大きな汚物袋とが、妙に彼の気にかかっている所へ、胞衣会社から来た男の手で持ち去られた。彼は区役所へ出産届をした。
 万事が済んだ。順一は大抵眠っていた。秋子も昼となく夜となくうとうとしていた。食事と乳との時だけ、母と子とははっきり眼を覚した。
 これでいいのかな?
 そういう予感が、自分の室に居る時、街路を歩いてる時、会社で執務してる時、ふっと順造の頭を掠めた。
 不思議なのは、離れてると順一のことばかり気になったが、その室に足をふみ入れると、秋子の存在が順一を蔽いつくしてしまった。
 俺には順一より秋子の方が可愛いいのだ!
 そういう気持で彼は尋ねかけた。
「どうだい、身体の工合は?」
「ええ。」
 返辞だけをして、いいとも悪いとも答えないで、彼女は痩せた頬に弱々しい微笑を浮べた。その頬にぼっと赤味のさしてることがあった。
「熱があるんじゃないのかい。」
「いいえ。」
 髪の生え際が薄く、額に一脈の淋しさを浮べ、頬の皮膚が蒼白く透き通って見えた。それが美しかった。
 枕頭にじっと坐ってるのが変だったので、彼はよく縁側に屈み込んで、庭の黒い土を見守った。秋子が起き上れるようになりさえすれば、それでいいとも思った。
「幾日すれば起き上れるんだい。」
「三週間だそうですけれど、そんなに寝てるのは退屈ですわ。」
 その三週間が半分以上過ぎ去った頃から、秋子は軽い下痢を催した。ビオフェルミンをのんだり食物の用心をしたが、何の効もなかった。然し大したことではなさそうだった。
 或る日、順造が会社から帰って来ると、女中が頓狂な顔をして彼を玄関に迎えた。
「奥様が大変でございましたよ。」
 彼ははっとした。
 秋子はうとうと眠っていた。彼が枕頭に坐り込んでも眼を覚さなかった。彼はその額に手をやった。燃えるように熱かった。驚いて手を引込める途端に、彼女は眼を開いた。
「どうしたんだい?」
 彼女はぼんやりした眼付で彼の顔を探し求めた。それから微笑んだ。
「あなたでしたの。……私夢をみていた。」
「熱があるじゃないか。」
「そう?」
 彼女はその朝から腹が激しく痛んだそうだった。余し腹痛は産後も屡々あった。子宮が収縮する度に痛むのですから、痛むほど早く元に直るのですよ、と産婆が云った言葉を彼女は思い出して、彼にも黙っていたのだった。所が午頃《ひるごろ》から激烈な疼痛がやってきた。床の上に身をねじって苦しんだ。痛みが去るとねっとり汗をかいていた。それが頻繁にやってきた。夕方になって少し遠のいた。それからうとうと眠ったそうだった。
「腹の痛みはともかく、ひどく熱があるようじゃないか。」
「そう?」と彼女はまた半信半疑の答えをした。
 熱を測ると彼は喫驚した。三十九度一分に上っていた。
 先ず産婆を呼ぶことにした。女中が駆け出して行った後で、彼は和服に着代えて食膳に向った。秋子は何も食べたくないと云った。それでも赤ん坊に乳をやっていた。
 間もなく産婆が来てくれた。産婆にもよく分らなかった。その紹介で、産科婦人科の坪井医学士に頼むこととした。近所の電話をかりてかけさせると、すぐに行くとの返辞だった。
 秋子はまた腹痛を訴えだした。産婆の指図で、腹部に温湿布をし、頭に氷嚢をあててやった。痛みが去ると、彼女はまたうとうとしていた。
 すっかり夜になってから、坪井医学士が来てくれた。胸部の聴診の時に、以前呼吸器の病気をしたことはないかと聞かれた。肺尖加答児をやったことがあったね、と順造は秋子に尋ねた。秋子は首肯いた。然しその時もう医学士は、腹部の診察にかかっていた。産婆が側についていてくれた。子宮の内診の時に、順造は座を外した。
 診察が済んで、女中が茶を持ってゆく時、順造はまたその室に戻った。
「病名は今の所まだはっきりしませんが……明日まで経過をみたら大抵確定するつもりです。」と医学士は云った。「然し熱が高い間は、兎に角授乳は控えといたが宜しいでしょう。」
 明朝までに便《べん》を少量届けてほしいと頼んで医学士は帰っていった。
 産褥熱! 非常に恐ろしい病気のように聞いていたその名が、順造の頭に閃いた。彼はそっと産婆に尋ねた。産婆はそうらしくはないと答えた。それでは窒扶斯《チブス》かも知れなかった。然しそれを産婆は
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