ら、輝かしい不思議な世界が開けてきたのだった。新らしい一つの生命が生れて出ている――而も自分と秋子との子として! 父親となり母親となることは、一つの運命の扉が開けることだった。その扉が開けるためには、如何に大きな力がのた打ち廻ったか! 二三時間前に産婦の室全体が唸り出したあの恐ろしい気配を彼ははっきり思い出した。
それにしても、あるかなきかの息をしながら身動もしないで、すやすや眠ってる赤児の存在が、可愛いいというよりも余りに小《ちっ》ちゃかった。今迄どうして腹の中に居られたのだろう、そしてよく生れたものだ、と思えるくらいの容積ではあったが、その活力が、存在が、一つの運命を荷ってるとしては、余りにちまぢまとしていた。赤児の存在とその運命とが、別々なものとなって彼の心に映じてきた。
然しそれは二つのものである筈はない!
彼は不思議な気持で、赤ん坊の方を覗き込んだ。真綿の帽子を取ると、黒い髪の毛が生え揃っていた。先の尖った馬鹿げて長い頭だった。産毛を一塊もじゃもじゃとさしたような眉の下に、閉じた眼瞼がすっと切れていた。額に皺が寄り、眼の縁がたるみ、唇が薄く、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が殆んどなかった。頬がふっくらとして、鼻が高かった。その滑かで柔い頬を、指先でちょいとつっつくと、顔全体がくしゃくしゃな渋面となった。はっと思ってるまに、それがまた静かに元に返った。
赤ん坊もまた疲れてるのだ。
「あなた、何をなすっていらっしゃるの?」
振り向くと、秋子が眼を開いていた。咄嗟に彼は思い出して、真綿の帽子を赤ん坊に被せてやった。
「馬鹿に長い頭だね。」
秋子はただ微笑んだ。そして云った。
「もうお寝みなさいな。」
「うむ。」
曖昧な返辞をしたまま、彼は腕を組んでじっと坐っていた。虫の声がまた俄に響いてきた。聞くともなくそれに耳を傾けてるうちに、彼は底深い夢想に沈んでいった。
「あなた!」
それが、彼を喫驚さした。
「なぜお寝みなさらないの?」
秋子が底光りのする眼で彼の方を見守っていた。彼は眼を外らして室の中を見廻した。凡てがひっそりとしていた。母と子との枕頭にいつまでも端坐してる自分の姿が、頭の中に浮彫となって映った。何とも云えないかすかなざわめきが、室全体を外から包んでいた。
彼は突然恐ろしくなった。背中が冷たくなったのを強いて立ち上った。
「もう夜明けに近いかも知れない。」
そう云い捨てて彼は、秋子の視線から眼を避けながら、室の片隅に敷いてある布団へ、着物のままもぐり込んだ。
眼をつぶると、暗い所へ引入れられるような心地がした。眼を開くと、先刻まではそうも感じなかったが、赤ん坊のため二重に覆いをした電燈が変に薄暗かった。……幾度も眼を開いたり閉じたりしてるうちに、いつのまにか眠った。
然しよく眠れなかった。表を通る牛乳車の音に眼を覚した。次に眼を覚した時は、遠くに汽笛の音や汽車の響がしていた。それからもう眠れなくなった。そっと起き上った。顧みると、秋子も赤ん坊もぐっすり寝込んでるらしかった。
彼は一寸躊躇したが、やがて忍び足で縁側に出て、雨戸を静かに開いた。冷かな空気が薄すらと霧を湛えて、夜が白く明けていた。彼は大きく呼吸をした。それから煙草を吸った。庭の隅の茂みの中に、何やら淡い色があった。よく見ると、大きな枸杞《くこ》の下垂《しだ》れ枝が、薄紫の小さな花を一杯つけてるのだった。
彼はその花に暫く見惚れていた。心の奥から、第一の夜明だ! という声が湧き上ってきた。
三
粘りっ気の多い緊りの少い、何だか混沌とした全体だったが、眼だけが神秘で美しかった。ぼんやり見開いてる黒目に、外の光が奥深く映って、僅かな微動にもちらちらと揺いで、それからまた静まり返った。その底から露わな魂が覗き出していた。――それだけが彼の世界らしかった。
順造は傍からぼんやり見守っていた。
産婆が毎日湯をつかわせに来た。室の中に上敷を拡げ、盥を置き、その中で湯をつかった。拳を握りしめて肩にかついだ両手と、く[#「く」に傍点]の字に曲げてる両足とだけに、驚くほどの力が籠っていた。根元を堅く結えられてる赤い臍の緒が、湯の中にゆらゆらとしていた。その臍の緒に沃度フォルムが撒布され繃帯がされると、感じから云っても独立した一個の存在だった。顔を渋めて口で何かを探し求めていた。乳が出なかったので砂糖湯を与えた。黒いころころの糞をした。淡褐色の液体を口から吐いた。生れる時に飲んだ汚物だそうだった。乳が出るようになっても、秋子のは盲乳《めくらぢち》だった。乳首をもみ出して吸いつかせるのに、彼女は一生懸命になっていた。
順造は名前をつけるのに苦心した。いくら考えてもよい名前が浮ばなかった。思い惑ったはてに、自分の順
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