た、綺麗なお児様ですこと。お手柄でございました。」
 彼は背筋がぞっとして、啜り泣きがこみ上げてきた。それを押えてるまに、眼の中が熱くなった。
 赤いメリンスの布団の襟から、円めた真綿を帽子に被った小さな真赤な顔が、少しばかり[#「少しばかり」は底本では「少しぼかり」]見えていた。
「ほんとに奥様はお強うございますよ。声一つお立てなさらないんですもの。あんなに激しい陣痛を、よくお堪えなさいました。でも、陣痛がおっつけ[#「おっつけ」は底本では「おっつげ」]おっつけ激しくきましたので、時間が長くかからないでようございました。よく中途で陣痛が止ってしまうような方がありますが、それには困ってしまいますよ。奥様のはそれは[#「それは」は底本では「ぞれは」]激しくて、それをまたじっと我慢していらっしゃるので、代りに私共がうんうん唸ってあげましたよ。」
 産婆は助手を顧みて、顔を輝かしていた。
 順造は秋子の方を覗き込んだ。総髪《そうがみ》に取上げた先を麻で結え、四五本のほつれ毛が額にこびりついていた。透き通るように蒼白い顔の皮膚をたるまして、枕の上にがっくりとなっていた。疲労の余りに興奮した眼だけが、僅かに生気を示していた。
「大丈夫?」
「ええ。」と出るか出ないかの声で彼女は首肯いた。そして赤ん坊の方を、眼付でさし示した。
 彼は不思議なものをでも見るような気で、初めて赤ん坊の方を覗き込んだ。皺寄った額、閉じた眼、小さな口、鼻だけがつんと高かった。真赤なぶよぶよの皮膚に、金色の産毛《うぶげ》が透いて見えた。眺めていると、前から知ってる顔のような気がしてきた。それがじっと、何時までたっても動かなかった。
 生きているのかしら?
 指先で頬辺を一寸つっつくと、生温《なまあったか》いつるりとした感触がした。喫驚して手を引込める間に、赤ん坊は唇のあたりをかすかに震わした。
「まだ余りお触りなすってはいけませんよ。」と産婆から注意された。
「生きていますね。」と彼はうっかり云ってしまった。
「生きていらっしゃいますとも!」
「でも息をしていないようだったから……。」
 産婆が声高く笑い出し、秋子が口許に微笑を浮べたので、彼は漸く安心した。
 女中が盥や上敷を片付けた頃、秋子は俄に腹痛を訴えだした。
「後産《あとざん》でございますよ。」と産婆が云った。
 順造は一寸其処につっ立っていたが、産婆が何かの用事にかかったので離室《はなれ》の自分のへ[#「自分のへ」はママ]逃て行った。
 大丈夫だ、大丈夫だ! 何がかは分らないでただそういう気持がした。
 時計を見ると、十二時を少し過ぎていた。あたりが静まり返っていた。雨の降るらしい音が一寸したので、耳を澄したがはっきり分らなかった。窓を開いてみた。妙に空気が稀薄に思えるような、澄み切った静かな夜だった。空には星が一面に輝いていた。
 彼はその星々を眺めた。空高く一際輝いている星が一つあった。それに眼を定めてると、冴え返った光りが心の中まで沁み込んできた。星と人間の運命とを一緒にして考えた古人の思想が、嬉しく胸に蘇ってきた。人が生れるのは上潮《あげしお》の時だ、そういうことまで思い出された。
 上潮だ、上潮だ!……星が光ってる!
 嬉しさとも淋しさともつかないもので、胸が一杯になった。
 産の始末がすっかり済んでしまってから、彼は産婆と助手と一緒に、取っておきの鮨を茶の間で食べた。
「実は心配しておりましたんですよ。予定よりだいぶお早くて、お児さんの位置が骨盤まで下っていなかったものですから、手間が取れはしないかと思っていました。それでも案外早くお生れなさいましたので、結構でございました。発育も十分でございますよ。」
 産婆はそんなことを一人で饒舌《しゃべ》っていた。順造はただ短い感謝の言葉を述べた。
 産婆が帰っていったのは、午前二時頃だった。順造は女中を寝かして、一人起きていた。床へはいる気がしなかった。
 今晩はよくお眠りなさるが宜しゅうございますよ、と帰りしなに産婆が云ったその熟睡を、秋子はなかなか得られないらしかった。心身の疲労にうち負けてうとうとしながらも、暫くするとぱっちり眼を見開いた。そしては赤ん坊の方を気にした。
「大丈夫だよ、」と順造は云った、「よく眠ってるようだから。」
「そう。……あなたもお寝みなさいな。」
 声の調子が以前よりは、弱くはあったが澄み切っていた。
 虫の鳴く声が遠くに響いていた。
「ほんとによかったね。」
 順造が独語のように低く云った時、秋子はまたうとうととしていた。一寸眼を開いて彼の顔を見たが、彼が黙ってるのでまた眼を閉じた。
 茶色の勝った大きな布団と赤っぽい小さな布団と、二つ床を並べて寝ている母と子を、順造は何とも云えない心地で眺めた。恐れていた幻影の彼方か
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