一層はっきりと否定した。けれど彼女にも結局分らないらしかった。
 女中が牛乳と薬とを取りに行ってる間、産婆は残っていてくれた。
 腹痛が不規則に襲ってきた。秋子はもう身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]きはしなかったが、眉根に深い皺を寄せ歯をくいしばってるので、それと知られた。
「苦しい?」
 彼女は何とも答えないで、彼の顔をじっと見返した。かすかに微笑を浮べようとしてるらしいのが、筋肉が引きつって泣顔になっていた。
 産婆がしきりに秋子を慰めてくれた。しまいにその言葉が途切れると、順造は俄に不安な恐怖に襲われた。室の隅に押しやられてる子供の方へ行った。その寝顔を見て、また秋子の方へ戻ってきた。
 女中が帰ってくると、牛乳は産婆が調合して、それから子供に飲ましてくれた。秋子の盲乳《めくらぢち》によりも一層安々と、護謨《ゴム》の乳首に吸いついて、咽せるほど吸っている子供の様子を、順造は涙ぐましい心地で眺めた。秋子も首を伸して、その方を眺めていた。
 産婆は十一時が打つと帰っていった。それを送って門口まで出た時、順造は急に夜気の冷たさを感じた。空を仰いで冴えた星の光を見ると、秋も更けたという気がした。彼は室に戻って、思い出したように火鉢に炭をどっさりつぎ、水を入れた洗面器をかけて湯気を立てた。
 秋子と順一との間に床を取らせようとすると、秋子は自分を真中にしてくれと云った。彼は女中と二人で秋子の床を室の真中に引張った。その後に自分の布団を敷かした。いつでも起き上れるように、着物のまま布団にはいった。
 秋子は腹痛が遠のいていた。その代りぐったりしていた。
「気分はどう?」
 暫く返辞がなかった。眠ってるのかなと彼が思い初めた頃、低いゆるやかな声がした。
「いくらかいいようですわ。」
 彼はもう話しかけない方がよいと思った。彼女の額にのっている氷嚢が、びくりびくりとかすかに震えるのを見て、その脈搏の数をはかろうとした。ゆっくりした力強い脈搏のように感ぜられた。
 このまま落着いてゆけばもう大丈夫だ!
 それで安心して、疲労のためにうとうととした。
 夜中にふと眼を覚すと、順一の泣声が耳についた。秋子が半身を起して、襁褓《おむつ》を取代えてやってる所だった。彼はがばとはね起きた。それから牛乳を沸して飲ましてやった。
 順一も秋子も眠った。彼も最後に眠った。
 翌朝、女中は坪井医学士の許へ便を届けた。午後診察に来るとの由だった。
 順造は食事を済し、子供に牛乳をやり、それから庭に出て、狭い地面を歩き廻った。霧を通して射す朝日の光が快かった。植込の下枝の枯れたのを、ぽきりぽきりと折り取ってやった。
 十一時頃、坪井医学士が不意に来診してきた。順造はどきりとした。医学士は腹部の診察だけをした。
「結核性腹膜炎です。」
 思いもつかない病名に、順造はただ医学士の顔を見守った。医学士は煙草に火をつけて、病人の顔を暫く見守った。
「出来るだけ動かないようにしなければいけませんね。」
 それから、病院にはいってはどうかと勧めた。子供のためには乳母の必要があると命じた。不完全な牛乳は最も危険だそうだった。
 乳母の方は、ありさえすれば問題ではなかった。入院の方は秋子がどうしても承知しなかった。
「私子供の側で死にたいから。」と彼女は云った。
「死ぬの生きるのというほどのことではありません。入院して早く癒った方がよくはありませんか。」
 それでも秋子は承知しなかった。順造の顔を懇願の眼付でじっと眺めた。
 順造は決心した。家でやることにきめた。看護婦を傭う事は医学士が引受けてくれた。
 順造は乳母が来るまで二人ほしいと頼んだ。
「大丈夫だから、安心しておいで。」
 秋子が強く首肯いたので彼は嬉しかった。彼はすぐに桂庵へ行った。赤茶けた髪の婆さんが出て来た。頭から足先までじろじろ見られるので、可なり不快な気がしたが、それを我慢して乳母を頼んだ。
「宜しゅうございます。心当りが一人ありますから、聞き合せてみましょう。少し月が違いますけれど、牛乳よりはどんなにましだか分りませんよ。牛乳をおやりなさると……。」
 牛乳と母乳との講釈が出そうになったので、順造は至急に頼むと云い捨てて飛び出した。
 空が拭ったように晴れて、日の光が冴え冴えしていた。そのぱっ[#「ぱっ」に傍点]とした外光の中で、彼は突然云い知れぬ不安を感じた。駆けるようにして帰ってきた。
 午後、産婆が見舞ってくれた。結核性腹膜炎と聞いて眉を顰めた。順造は危険な病気であることを直覚した。
 夕方、看護婦が二人やって来た。
 秋子はまた激しい腹痛を訴えていた。食物を与えるとすぐに吐いた。日の暮れ方に、坪井医学士が見舞ってくれた。注射が行われた。暫くすると腹痛が止んだ。けれど秋子はぼんや
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