び上ってきた。啜り泣きとも憤りともつかないのが、喉元にこみ上げてきた。
 それが彼女にも反射した。彼女はいきなり片膝を立てて、彼の方へにじり寄ってきた。
「私の身体をどうして下さいます?」
 敵意の籠った抱擁のうちに、彼は身を投げ出した。
 今に見ろ、今に見ろ!
 眼をつぶりながら、震えていた。

     六

 三月の半ばに、順造は竜子の妊娠を知った。
 彼女は頭が重く痛いと云ってぶらぶらしていた。食慾が非常に減じた。総毛立った蒼い顔色をして、何をやり出してもすぐに放り出し、眉根をしかめて黙り込んでいた。朝は遅くまで寝て、晩は早く床にはいった。うっとり夢みるように考え込んでるかと思うと、急に眉根をしかめて苛ら立った。白粉の匂いを嫌がって、蒼脹れのした穢い素顔のままでいた。そして或る朝、食後間もなく、食べた物を皆吐いてしまった。順造は漠然とした不安を覚えた。腹膜炎! そういう考えが真先に浮んだ。医者に診《み》せてごらんと切《しき》りに勧めた。然し彼女はそれに従わなかった。診て貰っても無駄だと頑張った。二度目に食物を吐いた時、順造は叱りつけた。医者の家へ行かなければ、僕が医者を呼んで来てやる、とまで云った。
「病気ではございません。」と彼女は答えた。
「ではどうしたんだい。」
 彼女は暫く考えていたが、低い声で云った。
「悪阻《つわり》のような気がします。」
「え、悪阻!」
 順造は飛び上らんばかりに驚いた。
「本当かい?」
「ええ、屹度そうに違いありませんわ。」
 眼を一つ所に定めて、心で胎内を見守ってる様子だった。
 順造は初めの驚きが鎮まると、心がどしんと落着く所へ落着いた気がした。彼女から顔を見つめられると、冷かな調子で云った。
「じゃあ身体を大事にしなけりゃいけないよ。」
 ふいに暗室の中に飛び込んで、暫くつっ立ってるうちに、闇黒に眼が馴れてきて、ぼんやり物の影が見えてくる、その心地に似ていた。
 運命! とでも云えるものが、頭の上にじかに感ぜられた。過去の全景が、影絵のように浮出してきた。秋子の儚い運命が、茫と燐光を放っていた。順一の……。
 星が光ってる!
 あの時の感じが、胸の中に甦ってきた。それを如何に長く忘れていたことだろう!
 順一はまるまる肥っていた。瞳の光が澄んでいて、目玉の動きの遅い所が、秋子によく似てるようだった。鼻筋が通って唇が心持ち
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