した。わざとその枕頭を力足で歩いてやった。
順一は眼を覚して泣き出した。竜子は慌てて乳を含ました。
「むりに寝かしつけようとばかりしないで、少し抱いておやりよ。」
彼女は黙って、順一が眠るまで待った。それから彼の方へ向き直ってきた。
「私を憎んでいらっしゃるんでしょう。それなら、私出て行きます。」
「出て行けと誰が云った!」
理不尽な言葉を浴せかけてやったが、彼女は反抗して来なかった。下を向いたまま、髪の毛一筋揺がさないで、じっと坐っていた。
鎗で突いても突き通せない、じいわりとした而も深い根を張った、重々しい容積という感じだった。彼が其処を立去っても、もう見向きもしなかった。
彼は一人で苛ら立った。
夜遅く眼を覚すような時には、心が冷たく慴えきって、何となくあたりが見廻された。誰も居なかった。八畳の室ががらんとしていて、孤独な自分の姿をぽつりと浮び上らせた。彼はなお室の隅々まで見渡した。誰かが隠れているかも知れないという気がした。
その誰かが、無意識に探し求めている誰かが、実は秋子であることに気付くと、彼は堪らない気持になった。
秋子、秋子!
障子の硝子に映ってる彼の影を見て、二つになってはいや、と云った彼女のことが、はっきり思い出された。
彼は布団から匐い出して、半身で伸び上ってみた。後ろに電燈の光を受けた真黒な影が障子の腰硝子に薄すらと映っていた。瞳を凝らすと、それが次第に濃くなってきた。硝子のすぐ向うまで寄って来て、今にも室の中に飛び込んで来そうだった。
妙だぞ、と思うと同時に、彼はにじり寄ってる自分自身が恐ろしくなって、つと身を引いた。拭うがように凡てが消えて、雨戸の白い板が向うを限っていた。
かすかな……音とも云えない音が、何処からか響いてきた。彼は耳を傾けた。釘を打つ音、伏金の音、火葬窯の扉の音……でもなければ、分娩の唸り、瀕死の唸り、でもなかった。何だか滅入るような、焼かれた骨が灰になってゆくような……気配だった。自然と押入の方が顧みられた。ぞっと身震いがした。
ふらふらと立ち上って廊下に出た。黒い影が掠め過ぎた。彼は顔色を変えた。不吉だ! という気がした。向うの室にはいってみると、順一と竜子とが床を並べて寝ていた。秋子が分娩した時の通りの位置だった。
そういうことが幾度もあった。
竜子もいつしか、彼の様子に気付いていた
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